あの未来に続く為だけの、それだけの人生だ。

悲観と懺悔溢れる 幻想の埒外の辺境地

骨の髄まで狂ってしまえ。(Àwakings)

骨の髄まで狂ってしまえ。

狂った自己認識と正しい認識、相通ずるところで共感する。

細かいところは気にするな。感情の一致が人間社会では重要だ。

 

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私の生き方はそれが性に合っているのかもしれない。

他の人達が喜んでる、悲しんでる、怒ってる、騒いでる。

どれも察知できない。私の感情はいつも「放ったらかし」だ。だから気付いてやっと真似る。合わせる。伝播する感情、心理を受信できない。厄介な性質だ。それにレスポンスを求めないでくれ。

私には共感能力がない。共感に見える反応をすることがある。それは他人の感覚とは違う、私の中での納得なのだ。みんなは理屈じゃないというが、私は理屈なのだ。理屈の上で納得し、同意するのだ。

「情報→納得→同意」このプロセスが必要なのだ。なんとも面倒くさい。オートマチックに条件反射に共感し、コミュニケーションできる能力が羨ましい。

しかし簡単な話、社交辞令的に納得がなくても同意(共感のふり)をすることはできる。だが意味が解ってないのでどこかで会話の綻びが現れる。それも何とかごまかして別の話題に持っていけば事なきを得ることができるが、後日思い返したとき一体自分はどんなポジションで、どんな印象で、どんな役割だったか、その役割は果たせていたか分からなくなる。自他共に次の機会での身の振り方が分からなくなる。自分は役割を果たせていたかや空気を読めていたかなどで悩むが、今考えてみればASDの自分にはどれだけ考えても知覚できない課題だったのだ。

 

はっきり言ってそんな他人の作り出す空気を察する能力も、ましてや機知もない。自分が感じた疑問、意見、興味だけだ。それを心に押し留めて周りに合わせる。こちらの心持ちとしては場の雰囲気を壊さないようにする、針の穴に糸を通すように言葉を選んで、一歩引いたところからコミュニケーションするのが精一杯なんだ。

この辛さはなんだ?ありのままではいけないのか?疑問に思ってその場の人間に訪ねても「そんなもんだ」「合わせとけ」「意味がわからない」と答えを得られることはない。いわば思考停止で進めていけるコミュニケーションなのだ。私の場合はシラフでも、お酒が入っていても、納得が必要なのだ。その姿勢が「頑固」と言われる所以なのだろう。でも仕方ないのだ。「そんなかんじ」「的な」感じの会話は出来ないことはないが、結局本質を知りたくなって深いところまで話題に興味を持って「理屈っぽい」という印象を与えてしまう。

そんな時の説教たらしく、理屈で説き伏せようとする自分が私は嫌いだ。絶対に納得を得られないのに、論破したいわけでもないのに相手の本質を知りたくなってしまう自分を制御できない。マウントを取りたいわけでもない、ただ本音が聞きたいという「興味」で深入りしてしまう。これは自分でも悪いところだと自覚している。

 

相手の心象を察する、空気を読む、どれも私には限界がある。

ましてこのブログは私のネガティヴの残滓、マイナス思考の溢れた雫の言語化。頭のおかしい結論に帰結するのも私の自由だ。

ポジティヴ?前向き?楽観?未来?なるようになる?洒落臭ぇ。それは心の持ちようだろうが。私は納得を欲している。偶然の産物に興味はない。宗教に興味がないわけではないがそこに神の存在は感じない。神に願った先に望む結果があった、だから信仰心が育まれる。理由なく神仏を崇める気にはなれない。

 

私は自分の「納得」を第一に信じる。

だがその「納得」は世間に受け入れられるものなのか?

私の感覚、経験ではそれは「認知の歪み」だ。自分に都合の良い解釈、自分のキャパに収まるよう噛み砕いた「理解」だ。

自分の知識を超えることは出来ない。自身のあらゆる経験、見解を駆使して理解しようとする試みだ。

 

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「何しようぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え」

 

ただそれが何になるのだろう。理解も納得も一度得れたからと言って永遠ではない。それぞれの捉え方は言葉、心、場面で変わる。

それを「共感」と勘違いして、その感覚をまた得たくて弱い自分は相手に合わせる。真面目くさって感情共有体を演じてもどこかでボロが出る。その代償を払うのはいつだって自分だ。

人生、ましてや自分の意志で歩め、あらゆる感情と興味を集めるには時間が少なすぎる。人生は短い。

その短い人生も他人の真似事、顔色を窺うことに使って何になるのだろう。時代も常識も人の目も関係ない。ただひたすらに、興味の赴くままに遊び、追求して日々を暮らす、こんな素晴らしい生き方はない。

答えは出てているんだ。

「所詮、人生は短い夢、ただひたすらに面白おかしく遊び暮らせ。」

これが答え、本質だ。刹那的、快楽を求め、他人の意見や世相なんざ些末なこと。感じた価値を追求し、人が扇動され群がる「意味、価値」のあるものより、まだ見出されていない「無意味、無価値」に自分なりの「有」も見つけて愛でた、それを他人に知ってもらう努力、世間との答え合わせ。それが面白おかしかった。

でもいつしかやめてしまい、他人の真似事でしか生きることができなくなっていた。

人の心が分からない。それが人生の課題になってしまっていた。

そしてASDだと知った。世界は何も間違っていなかった。間違っていたのは私だ。自分が犠牲になれば分かり合える。全て丸く収まる時が来ると信じていた。

でもそんなものは無かったんだな。根本から違う存在同士だったんだから。面白おかしく暮らす事を忘れ、他人が面白おかしく暮らすことを願い、自分を雑に扱ってしまった。これは答えに反している。まずは自分だったんだ。

 

発達障害アトピー?回避性パーソナリティ?反復性短期うつ?大層、大層!大層なもんだ!

私にはそんなレッテルは必要ない。弱さの証明を他人に開示したところで誰も助けてくれない。憐憫になんの意味もない。

全部抱えて「自分」だ。ただひたすらに面白おかしく遊び暮らすだけだ。それが私の「狂気」だ。

骨の髄まで狂ってしまえ。他人の入り込めない己の真髄まで。

どうせ他人の「普通」の後追いをどんな犠牲を払ってでも追いかけても追いつけなかったんだ。

今になって思う、少しの後悔。昔の、あの頃のまま、狂っていればよかったんだ。

誰も知らない書籍、世界、アイデア。探求が理解される世界、離れるべきではなかった。慣習と現状維持に支配された世界、それは私にとって地獄だった。何も探求できない、誰も疑問に答えない、何を犠牲にしても現状維持。「無意味、無価値」「意味、価値」の概念の付け入る余地のない世界、これが自分の「地獄」だと理解した。

 

今、私の取り巻く世界はその「地獄」ばかりだ。地獄の住人になる気はない。目の前の欲望に負ける餓鬼に成り下がる気はない。

私には叶えたい願望があるのだ。世俗の瞬間の快楽の依存症になる気はない。

 

現状を打破する。それにはやはり狂わねばならない。狂気が必要だ。狂気を欲している時点で他からの「理解」は諦めねばなるまい。

常識を信じない、理解を諦める、なら心の支えは何か?

己しかない。自信を持つしかない。人生で多くを授かり、膨大に失い、出涸らし同然の自分だけど、それは短い夢を、ただ面白おかしく遊び暮らす、それができないという言い訳にはならない。

 

「心が開いている時だけ、この世は美しい。」

 

己の心が開いている時、それは他人から見れば狂気の沙汰かもしれない。でも仕方ない。狂気に浸れるその瞬間の世界が美しいと知ってしまったんだ。人の心より美しき世界、未知溢れる世界、それは心の開放なくして知覚出来ない。

閉じた心で感じる無彩色で暗い世界に美しさを見出すのは私には難しい。

どれだけ年令を重ねても私は心を開いていたい。美しい世界を感じたい。たとえそれが狂気の沙汰でも、止められない。自分だけの見たい景色があるから。

 

最近、マラソン大会の受付の手伝いをした。フルマラソンを走りきった人たちはみんな達成感と開放感で心底心が軽いのか、どんな人にも親切に丁寧に、普段の人柄は分からないが接していた。ゴール者が増えるに連れて、同参加の知り合いも増えてきたのか、和気あいあいのような空気がゴール会場を包んでいた。私はその空気に参加は出来たが「反応」は出来なかった。空気に馴染むではない、空気に馴染む「行為」をして初めてそこに参加出来たのだ。自然ではない、察知できて行為としてやっと参加できたに過ぎない。

一連が終わり、そのプロセスを解析している自分が嫌だった。こんなことに脳を使わず、自然に行える精神が羨ましかった。

その時思った。今回のブログを書いたもとだ。

 

「ただ狂え。」

そう、空気に馴染めない。それが自分の特性だった。察知できないものに対していつも「後追い、真似事」だった。無理に反応しなくていい。それに「面白おかしい」意味を見出せばいい。体の外に表出する表現が一致していればいい。相手は喜び、自分は興味。心の中身は違ってもいい。要はそれが「面白おかしい」かどうか。

 

私は人の心が分からない。でも今を面白おかしいと体外で表現することはできる。騙しているつもりではない。感じている感情は違うくても共通のボディランゲージからコミュニケーションをとることはできる。

相手は正常な反応、私は狂気。意思疎通できるなら正常だろうが狂気だろうが関係ない。ましてこちとら社会性を共有出来ない特性持ち。

生きやすさに使えるなら狂気だって剥き出しにしてやる。

3

もう忘れた、小さい頃見たドラマのセリフ

「俺は生きる。」

そのキャラクターは生きるため、そのために狂っていた。

今の僕もそうだ。「俺は生きる。」

「普通」が分からない、集団的知性に寄与できない、集団心理に参加できないから、狂ってしまうしかない。

この社会不適合の特性は一生だ。一瞬じゃ足りない、一生だ。

骨の髄から脳髄まで、狂ってしまうがいい。

ブレるな。ブレて行う行為は所詮無理な他人の真似事、後追い、察知不可の通念の追いかけっこだぞ。

 

骨の髄まで狂ってしまえ。

人生は短い。ただひたすらに面白おかしく遊び暮らせ。

 

骨の髄まで狂ってしまえ。

人生は所詮幻に同じ、我を、世間を、忘れて何かに興じよ。

 

骨の髄まで狂ってしまえ。

人と分かり合うという夢、正気と狂気、何でもいい、ただ分かり合えた瞬間、出会えた価値観と一期一会を楽しめ。