あの未来に続く為だけの、それだけの人生だ。

悲観と懺悔溢れる 幻想の埒外の辺境地

月に吠える、今を生きる.

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月に吠える。

 

やるせない思いがある。だから人目も時間もはばからず夜空に吠える。届くはずもないのに、届くと祈り、聞き届けてくれると願う月に訴える。

 

月に吠える。それは狂人の行為だ。声に出す。大声で吠える。

自分の不甲斐なさを、情けなさを、至らなさを、言葉も何も返してくれない月に問いかける。それでいいんだ。心を、感情を、何かにぶつけたいだけなんだ。人の目なんか気にするか。心が叫びたがってるんだ。

その願いは叶わない、届かない。それでも伝えたい時がある。理想の自分、あり得た自分、間違わなかった自分。

狼も月に吠える。それは仲間への合図のようなものだろう。機能的なものだ。なのに人間も月に吠えたくなるのはなぜだろう?

自己顕示か?自己懺悔か?そんなもんじゃない。単純だ。寂しさだ。

 

私は普通じゃない、狂人の部類だ。だから夜中に誰の目も憚らず月に吠える。心のままを吐露する。(シラフだぞ)

はっきり言おう、現実は何も変わらない、その日寝て起きたら忘れてる。それでも吠えた自分は今ここに在る。

街中で、山中で、家の中で、月に吠えた、訴えた。

なんにも変わんねえよ。自己満だよ。でも、確かに、意思表示をした自分の存在は覚えている。

私が覚えている中で一番吠えた内容は

 

「どんな境遇に立たされても、絶対!人間として『堕落』しない!」

ということ。

 

過去を省みても自信を持って自分は「堕落」していないと言い切れる。

いつもニコニコ、気高く、弱みを見せず、困ったときのボク頼みのキャラをいまだに維持できている。

とても生きにくい生き方だけど、これがボクの「堕落」の境界線。これらを維持できなくなった時、私はそこらのワンカップ片手に競馬とパチンコで一喜一憂する小汚いおっさんに成り下がってしまうんだろう。

 

私には真の理解者がいない。いや100%の理解者がいるとそれはそれで気持ち悪いんだけど、「なんかそんな感じ、多分こういうこと言ってる」程度の話し相手はいるんだけど、私は理解者とはそれでいいと思っている。

思うに発達障害者は内面を追求しがちである。その内面の追求が行き過ぎてもはや他人が分かりたくても理解して欲しい願望の深度が深すぎる。

浅瀬の理解に満足できず、深海の理解を他人に求めてもそれは無理ってもんで、ある程度のキャラを自ら設定していないと生きにくいことこの上ない。

これは自閉傾向特有のものだから折り合いをつけていかないといけない。かくいう私もそれだから・・・・月に吠える。

布団や枕に顔を埋めて叫ぶ、慟哭する。

自閉にもカタルシスは必要だ。形なんてどうでもいい。月が異様に、誰の断りもなく綺麗なら月に吠えればいい。心の広い包容力のある人が身近にいるなら感情をぶつけてもいい。夜に寂しく暗闇の中、やるせない感情が渦巻いているなら、枕に向かって超大声で思いの丈をぶちまけてやればいい。

 

「緊張なくして解放のカタルシスはありえねえ。」

 

私の大好きな漫画キャラ、範馬勇次郎の言葉だが、まさしくそのとおりだと思う。

今に生きる。

 

なぜ生きているのか?生きている状態でいたくない。スマホやネットがあるから「あいつは今日休みだ」「暇してる」「予定が無いから声かけてもええやろ」

 

いやいやほっといてくれよ。生きてるだけは面倒くさい。私は本気で放って置かれたいんだ。生きてる死んでるの概念が近代以前ほどに重要でないなら静かに「死んだ状態」を謳歌させてくれよ。

電化製品で言えば電源OFFだ。スリープ状態じゃねえぞ。

 

時たま思うことがある。生きてるってなんだろ?生きるじゃない、生きてるってなんだ?

生きるから生きてるの?生きてるから生きるの?そこら辺から分からない。

私は「反復性短期うつ症」という持病がある。その苦しみの中、「私はなぜ生きねばならぬのだろう?」「明日、生きて成すことが無いのなら死を選ぶ選択肢もあるだろう」などと考えてしまう。

生きて成す予定がある、それが人の生きる意味。そう捉えるようになっている。出世したい。モテたい。お金持ちになりたい。なんでもいい。生きてこそ成せる目標があるからこそ人は生きられる。

今の世の中、明日は死ぬか生きるか分からない生存第一の世界ではない。自己実現至上主義の世の中で生きるというのは理想と最低でも現状維持を成すことにほかならない。

 

逆に今に死ぬ。

 

それは何も成す予定が無いことだ。想像するのは難しいと思う。

本当に成すことがない状態になることがあるのだ。

明日はあそこに行きたい。あの本を読みたい。仕事がある。など、本当に何もない。そんな状態に慣れた人間は自ずと死を考える。

 

だから人間に真に暇なんて存在しない。何かを成すために時間を使ってる。友達と遊ぶためや体力を回復するため、何もないようでつけれる名目はいくらでもある。

「暇」という言葉こそが名目なんだ。

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私は「反復性短期うつ症」のどん底期は希死念慮がひどい。上記に書いた心境だ。でも通常時は死んでも死んでも死んでも死にたくない!

私はASDだ。認知の歪みも相当なもんだ。それでも人が好きなんだよ。

ワイワイガヤガヤと人を楽しませたいんだ。20代の若い頃、私の個性は「変わった子」程度で許されていた。

30を超えて、周りの普通は仕事、収入、結婚、家庭、子供の話題になっていった。

どれだけはみ出ても、テンプレの人生を歩めていなくても、それでも私は楽しいことが好きなんだ。今まで出会った人達が、見切りをつけて離れていっても構わない。実際私は今一人だからな。

コミュニケーション能力なんぼのもんじゃい!要は人を笑わせることができればいいんじゃい!過去の私は宴会マスターの名を欲しいままにした支配者。ふさぎ込んでる時間は無駄だ!盛り上げればいいだけだ!

 

今日は生憎の三日月、キレイな満月は相手にしてくれそうもないようだ。

今日も月に吠える。不甲斐なさ、情けなさ、至らなさでなく、生きて成すことを。これは人目を憚らない決意表明だ。反復性短期うつで阻まれる決意が揺らぐ前に、継続でなく、積み上げで成す人生は私にはできそうにない。弾数を打ち続ける超高レート、ラピッドファイアの行動戦略だ。関連性なんて無視だ、脈絡なんてのも無視だ、一貫性?んなもん運命レベルで備わってねえわ!多行動・ハイランダーで生きる、それがお月様からの思し召しみたいだ。

まぁそれもいいか。