青と灰色
「浅葱より明るく、天色より澄み、紺より深く、空より高く、紺碧より強く、群青より尊くありたい。」
20歳前後の時に何げなく買った文庫サイズのマイブック。白紙の目立つページの中に書き入れていた文章。
青二才。未熟の意味と若さの意味の二重で“青臭い”が、
今の自分はどうだろうな。そうなれたかな?その心はまだ持ってるかな?
残念ながらその青い心はもう手放してしまった。今の自分の色は「鈍色、もしくは濁った溝鼠、良くて錫色」
色相が個性なら明度は自信、彩度は強さ。今の私は何もない。色はなく、暗くも明るくもない。彩やかさなど無くただくすんでいる。
時を経るほどに変遷する色に自分はいつも相応しくいられたのかな?これからも変わっていけるのかな?まだ青を目指せるのかな?
もしくは「現実的な黄」を足して緑?他者との調和を目指すか?
もしくは「情熱的な赤」を足して紫?個性と孤高を目指すか?
年齢を重ねる毎に「色」の変更は難しくなると感じる。色光は混ぜれば混ぜるほど白に近づく。絵具などの色材は混ぜれば混ぜるほど黒に近づく。その過程で色は濁っていく。
人の人生もその原理に似ているのかもしれないな。僕は多分、色光の性質ではない。
歳を重ねることで白に近づくことはない。絵具のように他者というチューブからひねり出した“情報”という色材を自ら取り込み、徐々に黒に近づく性質だろう。
始まりは「青」だったとしても僕は今までに雑多に、無知に色を取り込みすぎた。
赤、橙、黄、黄緑、緑、青、紫。色んな人に出会った。
できるならそのどれかの色に染まれればよかった。しかし私は自分の「青」を活かしたかった。青いまま何者かになりたかった。しかしそれは叶わなかったようだ。
色んな色を取り入れてもそれらが色材の性質なら混ざれば黒に近づく。
黒になる過程に灰色がある。今の自分は灰色なのだ。黒に至る過程だ。
自分の青をより個性的に、紺でも藍でも空でも水でもない青、自分だけの青色を作りたかった。しかし私は間違った。知識が無かった。
他人の意見、世を渡る知識を身に着ける度に青がくすんでいく。もとに戻したくて色を足せば足すほど更にくすんでいく。
そして今は鈍色、悪くて溝鼠。色味を足すことすら難しい。
もうあの明るい浅葱や、澄んだ天色や、深い紺や、高い空や、強い紺碧や、尊い群青には戻れない。濁っていく。黒に近づく。
そんな色をもって調和できる他人の色、その性質はどんなものだろう?
若いころはまだ澄んだ色を持つもの同士、色は違えど同じ明度、同じ彩度で調和し合えていた。
今のくすんで濁った色をもって調和する相手とはどのようなものだろうか?
その配色は美しいのだろうか?美しいと感じれるだろうか?その配色で己の人生を彩りたいと思えるだろうか?
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