あの未来に続く為だけの、それだけの人生だ。

悲観と懺悔溢れる 幻想の埒外の辺境地

最弱の「本性」と自分の「キャラ」について

※注意

この記事は試験的に、仕事の夜勤中の合間時間にちょこちょこ書き足していくスタイルで構成した記事です。その日の気分、眠気などで文章の調子が安定していません。乱文、違和感もろもろ含んでおりますので、「こんなの読んでらんねぇよ!」と思ったらもう閉じちゃってください。何卒

 

社会不適合でアラサー、無駄に転職が多く、特にアピールポイントもない私は世間的に見て最弱層のアラサーだ。

そんな僕が社会で生き残る道、人の役に立つ手段。

失敗を重ねた私は馬鹿じゃない。ありのままの自分?本性?

そんなモノは社会で役に立たないのは身に沁みて分かっている。

剥き出しの本性の自分、それを外に出すのは自由だが理解されることは少ない。むしろ剥き出しな分、外部からの影響で傷つくことのほうが多い。

やはりこの世をスムーズに渡っていくにはありのままの「自分」も大事だが、困難や理不尽をガードする「キャラ」を作るのも大事だ。

それは一度作れば長く使えるものから、シチュエーションによって使い捨て感覚のものまで、自分のようなASD、健常とは違う性質を持つ者は、普段使うExcelのシートのように、使い捨てのマスクのようなエチケット用品のような物のように常備しておく必要があると思う。

 

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現代は人間の、ありのままの自分の世界観を快適に生きるための「本性」だけで生活を成り立たせるような単純な社会ではない。多様な個性が尊重(?)されている社会、個性が許容されればされるほど「他人」と「自分」が違うことを自覚する事が大事になってくる。

そこに他人との違いを認めず、理解出来ず、「本性」剥き出しのまま突っ込んで、まるで川に戻って産卵を終えた鮭のようにボロボロになってしまう。「本性」は傷つきやすく、痕が残るのだ。そしてそんな思いをした社会、他人に対して遠慮、恐れ、歪んだ認知、トラウマを持ってしまう。そして考え込んだ末、自己否定、他者否定を常に行う何者でもない何かになってしまう。これはドツボだ。何が正しくて、自分と他者と社会のどれを軸に生きていけばいいか分からなくなる。一度迷子になってしまうと軌道修正は至難、一生を悩みの霧の中で迷い続けて終える人もいるだろう。

 

私は知りたい。我儘を通し、誰の影響も受けず、隠すことなく自分の「本性」をさらけ出し、たった独りで社会で生きていける「最強の自分」を誇れる人がどれほどいるのか。

 

私は真逆だ。我儘を我慢し、他人や社会から多くの影響を受け、「本性」を、苦痛を伴おうとも隠し通し、共感や同調の演技で独りにならずに生きている。

 

文字にすると本当に情けない性分だ。哀れみすら感じる。

弱いんだ。社会で上手く適応出来なかったことも含めると「最弱」といっていい本性だ。

 

だからといって自分一人だけで誰とも、社会とも関係を持たずに生きていくことは不可能だ。

たとえ最弱であっても、生きていかねばならない。

ならどうするか?

歴史を見るとそれは強者の物語だけではなく、弱者がいかに生き残ったかという物語も多くある。歴史の偉人で言うと戦国時代の真田昌幸は表裏比興の者と評されるほどあらゆる手段、知謀を使って真田家を守った。

いつの時代も弱者が強者と相対した時、実力の差を知恵と戦略、戦術で補ってきた。今の時代もそうだ。持て囃される個性や人間性に該当せず、社会に適応しにくい個性を持つ人は、それらと円滑かつストレスを少なくするための知恵と戦術が必要だ。

 

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私はただの他人に「本性」を明かさない。なぜなら自分の本性は面倒臭い性分だと知っているから。それは今までの経験や噛み合わないコミュニケーションをする度にひしひしと感じるからだ。

だから「キャラ」を作る。猫を被る。偽る。自分が演じやすいものに。

私のキャラON時の見分け方は簡単だ。年下年上関係なく敬語だ。タメ口(本性)は方言全開で理屈っぽく話がオーバーだ。それに加えASD特性で知識のギブを惜しまないから話が長いしくどい。大半の他人は会話に知識の吸収を求めていない。感情の同意を求めているのだ。そんな人たちのニーズに私の性分は応えられない=うざい。

だからコミュニケーション用に「キャラ」を作って被る。

材料は経験と簡単なコミュニケーション系の書籍1、2冊、他人のモノマネ。

気の利いたワードなんて考えない。興味がなければ質問しない。興味無いことには適当に愛想良くするだけ。他人と関係を深めるなんて考えてない。関わりを薄くしたければ最低限コミュニケーションで、「おとなしいキャラ」を印象づけて無駄な干渉を避ける。

周りの人達の主導権を自分が取れそうな環境なら先導者を演じる。

 

キャラを作るとは無理に演じることではない。

考え方は、世の中は「コント」、その中で行う行動は全部「ギャグ」。それをするためのキャラってところだ。

 

私のキャラ論は決して本性の偽りという意味ではない。本性を守る手段だ。

世間に迎合する、そのために本性を棄てたり否定したりするものじゃない。自分の本性本質は尊ぶべきものであり一生付き合っていくものだ。何よりも大切にしないといけない。

「キャラ」を作ることはそれを守る手段だ。

それは使い捨てマスクのようでも、再利用可能な布製マスクのように使ってもいい。

相手に自分の意図するイメージを植え付けるためのキャラ作りもあるがこれは難しい、経験と知識が必要になるのでそこまで考えなくていい。

考え方は単純。自分が演じられる「最強のキャラ」を作ればいい。この「最強」は、他を圧倒するという意味ではない。自分の引き出しから出したところ、知られたところで微動だにしない、「本性」を傷つけるには程遠い、詮索されても強くいられる部分を軸に人格(キャラ)を作るのだ。

 

それは誰か尊敬できる人のモノマネでもいい。自分の思い描く理想のキャラを作るのもいい。

とにかくストレスと不快を防ぐためならなんでもいい。コミュニケーションが苦手で人と関わるのが嫌なら、あまりコミュニケーションをしないキャラでいい。他人に合わせて適当に合わせるのが楽ならそれもいい。

他人だってそうだ。本性全開で生きている人間は少ない。みんなどこか自分の本性に自信がなくて、それが傷つかないようにキャラを被ってる。だから遠慮なくキャラを作って傷を防げばいい。

そしてキャラを演じるのに慣れた時、その一部が本性にフィードバックされる。その過程が私は人格の成長に繋がると思っている。だからいろんな場面でいろんなキャラを演じるのは、世の中で言うコミュニケーション能力の向上になる。

 

今の世の中は何もかも「型」が重視されているように思う。

成功も、幸福も、喜びも、人生も。

だからパーソナリティも無意識に標準「型」があってそれに沿わない者は変な目で見られたり、排除されたりする。そんなのを分かった上で本性を守り、他人との関係を円滑に進める「型」「キャラ」を駆使して世の中を乗り切りたい。

 

終わりに

ここまで読んでくれた心の広いあなた。ありがとうございます。

また機会があればこの記事をリライトするかもしれません。というかまだ自分で全部読み返してません。タイトルを決めて思いついたことを書き足していっただけです。いわば文章のマスターベーション。書きたいことを、読ませることなど考えず自由に書いたらこうなりました。

読みにくい?内容が意味分かんない?いいんだよそんなこと!こまけえこたぁいいんだよ!

レヴィナス先生とかツァラトゥストラ先生の本読んでみろよ。あいつらハナから理解求めてねえだろってこと書いてるから。

自分もそれに倣ったわけです。この書き足しスタイルのブログ、今後もやるかどうかわかんないけどなんか適当に思いついたこと書けたらいいな。