あの未来に続く為だけの、それだけの人生だ。

悲観と懺悔溢れる 幻想の埒外の辺境地

書きたいことが書きたくないこと② 【表現を諦めようと思うんだ】

 

actfazz.hatenablog.jp

 

私は表現したい。ブログを書きたい。もっと書きたい。書いている。書けているんだ。

しかし書きたいことが書けていない。書けない。

 

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そんなよくわからない葛藤を書いたのが2年前、そして現在だが依然その状態だ。

書きたいことが思い浮かぶ。書き留める。思慮を巡らす。ノートを開く。ペンを手に取る。…ここまでだ。何もかもが吹き飛ぶ。アイデアも考えもそれに使った時間も。

恥ずかしいとか言葉が直前になって思い浮かばないとかそういうものではない。何かに思考も行動も邪魔されている感覚だ。それはアクションを妨害してくるというよりこちらの打ち手を悉く”打ち消してくる”ような、反証を用いてこちらの動きを制限してくる。

そんな始末に負えない何かが書きたいこと、伝えたいことに対していつも現れ、全てを打ち消し、リセットしていく。

 

こいつだ、よくわからないこいつのせいで私は書きたいことも書けない。自分の気持ちをうまく表現できない。そんな状態を無意味で無駄なことだと思ってしまう。

これをどうにかしないといけない。頭の中にあるこいつを、消し去る術を、亡きものにする方法を。

これは認知か?観念か?障害か?妄想か?その正体を掴むために情報を集めた。日々を記録した。過去を振り返った。そしてやっと辿り着いた。

そいつの正体は他ならない、「自分自身」だったと。

 

思い返せばそういう兆候は昔からあった。私はとても自分に対する理想が高く、悩みがあっても絶対に他人に相談しない。(これに関してはまた別問題)常に問題は自己解決。

それが当たり前だった。でも人間は全てを抱えてずっと対処し続けることはできない。思えば早いうちから無理をしていたのだろう。

17歳の頃から私の悩みの相談相手はいつも頭の中の”自分”だった。表には出ないがいつも自分がクヨクヨと弱ったときに反対の意見を言ってくれて、強気に奮い立たせてくれる言葉をくれるもう一人の”自分”。頼りになる存在だった。他人に否定されたときも、決断にまよったときも、いつも背中を押してくれた。

なにかあっても”自分”に従っていれば間違いない。そう思っていた。それでうまくいっていた。”自分”が全てだった。

 

実際それでうまくいっていた時期が長く続いた。それで他者ともなんとか問題もなく過ごせていた。

しかしだ、忘れもしない31歳の5月4日だ。そいつ、”自分”が自分を責めるようになったのは。

 

いつも味方だと思っていた”自分”が四六時中 「なんでお前はダメなんだ?」「今まで何してたんだ?」「無駄な時間を過ごしたな。どうしてくれるん?」

と自分を責めてくるようになったのは。

今まで自分を励ましてくれ、鼓舞してくれていた”自分”が急に辛辣に逃げ場のない問いかけで自分を追い詰めてくる。

それは毎日ではないが周期的に頭の中に現れ、自分の無力さと、過去の否定と無意味さを訴えかけ、また間をおいて繰り返し訪れる。そんな生活が始まった。

 

 

現在私の中には少なくとも2つの自分がいる。普段の自分と、それを否定する”自分”だ。

病気かどうかは分からない。だがそいつ、”自分”は大体2週間~1か月の周期で表れる。

自分はまだ、少なくとも前向きな方だ。今はこうだがいつかはこうしたい、自分はまだやれると希望を持つ。しかし”自分”は悉くその希望を否定する。

お前はもう終わってる、世間では必要とされていない、死んだ方がいいんじゃないか、と。

そしてひどく落ち込む。ほとぼりがさめて自分に主導権がもどったら、前の”自分”の否定をしてまた前向きに考える。

その後また”自分”が自分を否定して、その後また自分が”自分”を否定する。その繰り返し。

現在の自分が約2週間前の”自分”を否定し、2週間後の”自分”が現在の自分を否定する…… 。これを延々と、自覚してから少なくとも3年以上は続けている。

 

2週間後にはもう自分はいない。別の誰か。だから書きたいことも、書き続けたいことも忘れる。無くなる。だって「これが書きたい、伝えたい。」と思っていた自分はもういない。書くとしてももういない人が考えたであろう、感じたであろうことを想像しながら書くしかないのだ。

それはとても難しいことだし無理やり書いたとしても本心ではない、嘘に近いストーリーをでっちあげているだけなのだ。

書きたいことは本当にいっぱいあるんだ。今年も半年ほど、仕事をしてる最中の隙間時間に思いついたことをメモ用紙に書いていっぱい残しておいたんだ。メモ帳丸々一冊分はある。でも、読み返してももう何も感じない。なぜそんなことを書いたかも思い出せないんだ。タイミングが悪く”自分”が見ればそれらはまた新たな自分に対する否定に使われるんだ。

 

書きたいことがあっても”自分”が否定する。疑問を投げかけてくる。さながら尋問だ。「お前は間違ってる。今までは無意味だった。無知なお前はこれからも間違い続ける。だからなにもするな。何も考えるな」と。

それでも自分はまだ抗ってる。「そんなことはない!」と。

 そんな抗争をなんとか解消すべく私は日記を付けることにした。自分は何がしたくて、”自分”は何が気に入らないのかを知るために。

半年続けて読み返した。本当に、笑えるくらいに、別人同士が紙に記録を付けているような内容だった。お互いを否定しあい、お互いが己を正当化しあう。

いつまでも事は進展しない。互いが互いを打ち消しあう関係が延々と続いていた。

そんな記録だった。

私自身、3~4年前から本当に、人として何も進歩していない。むしろ停滞、退化しているんじゃないか?という気はしていた。

同じところをぐるぐる廻っているだけ。新たな一歩を踏んだ実感がまるで感じられなかったのはこの自分と”自分”、こいつらの主導権争いのせいだったと今思っている。

弱かった自分が頼った強かった”自分”。そのバランスが崩れているのだ。

 

否定と否定の狭間で私は自分にも”自分”にもなれない。それは「自分」が無いのと同じだ。いつまでも「自分」が定着しない。明日の自分はもう自分じゃないかもしれない。

明日の今頃は”自分”が自分を虐げているかもしれない。

そんな自分への不信感と徒労感で私の精神の大部分は支配されている。

最近はもう今は私は自分なのか、”自分”なのか分からなくなってきている。

ただはっきりしていることは少なくとも2週間後の自分が現在の自分を否定し、亡きものとしようと頭を使っているということだけだ。

 

だから書きたいことを今書いてもそれは次の自分からすると書きたくなかったことになる。

 

「私は表現したい。ブログを書きたい。もっと書きたい。書いている。書けているんだ。

しかし書きたいことが書けていない。書けない。」

 

この記事も来年読み返すとこう思うんだろう。書きたいことが書きたくないことになる。

 

だから私は書くことで表現することを諦める。書けば書くほど、それを読み返せば読み返すほど、辛くなる。

なにも感じないんだ、思い出せないんだ、それを書いた心が。だからといってそれに替わる意見を持ち合わせてないのに当時の自分を否定する自分にも嫌気がさしているんだ。そんな自分 ? ”自分”? 「自分」? 私? よく分からない。

誰が誰にとやかく言っているんだろうね。

 

自分のことなのに、本当にまるで別人とやり取りしているようだ。この関係はいつまで続くのかな?一生?はぁ 面倒だな。

 

今年も、今日もまた終わっていく。これを書いた自分も終わっていく。

明日も今の自分でいられるのかな?

”自分”になるのはまだ嫌だな。

 

願わくば、1か月いや15日でいいから、1日目と同じ私で、その時の自分を否定しない”自分”のままでいたい。

 

そんなのを夢見てそろそろ終わるね。

さよなら自分、忘れないようにするよ。

 

最後に2週間後の”自分”、期待はしないがお願いだ。

今後の自分をよろしく頼む。