私にスキルが何一つない理由
30代も半ば近くになると人生についての考え事も大きく変わるなとしみじみ感じる今日このごろ。
去年、残業まみれ嘘まみれのブラック企業を退職し、自分のキャリアに終止符を打った。会社の空気が察せない。言葉の意図も解らない。最近自分がASDという発達障害と分かったがその前から「変わり者」といろんな職場で呼ばれ、その場その場でキャラを演じてきた。本心では相対せない。キャラを作らず話しかけるといつも自分から話しかけると「…?何言ってるの?」という反応をされた。
それが嫌になって自分から話しかけることができなくなってしまった。それ以降どんどん他人との意思疎通が難しくなっていっている気がする。その影響か最近はどこに行っても孤立気味で一人の時が長くなった。まぁ大人数は空気読めないし苦手だからそこまで気にしていないんだけど。
ただふと昔を思い出した時、苦労して周りに“合わすこと”ができてた時期もあってその時は楽しいこともあった。そんな環境に限って倒産とか火事で燃えたりして長く続かなかったのはこれはもう運命?宿命?みたいなものとして受け入れるしかないのかな。
それ以外に思い出すこと。辛かった思い出しかない。
スキルが何一つ無い理由
最初から結論を言うと
過去、私はずっと普通になりたかった。ただそれだけ。
私は周りと比べて変わってる、劣っているのかも知れない。でも周りを手本に学習することで私もいつかみんなとわかりあえる、笑いあえる未来があると信じていた。
だからその周りと同じなれるように努力した。努力してしまった。とても長い時間と心身を捧げてしまった。
結果が今の現状、際立ったスキルはなにもない。そして周りには誰もいない。信じた未来はなかった。
過去を振り返る
みんなの当たり前、それが出来なかったから出来るようになるよう努力した。
努力した所で結果はみんなの当たり前がやっとできるようになるだけ。普通になるだけ。
何のプラスもない。みんなと同じ基準、ゼロに立つために多大な時間を要しただけ。差別化できるスキルなんて身につける暇なんてあるわけなかった。
当事者以外には理解されないことは承知だ。何もしてこなかったという言い訳にも見えるだろう。ただ私は本気だった。なぜなら私は他人の役に立つことが好きだったからだ。
具体的に言うと人に情報提供するのが好きだった。周りがやらないことをして得た知識を共有すること、それが日々のモチベーションだった。
学生時代、重度のアトピーからほとんど人と接触できなかった時期から、回復して周りに認知してもらうためにとった行動だった。
その時はじめて「一人の人間」として扱ってもらったような気がしたのだ。
この体験は自分に生きる意味を与えた。と同時に自分を縛る鎖になってしまったと今は思う。
自分の得た知識、その共有が社会に出てからもモチベーションとなった。それを他人や会社に求めてしまった。本当はそれをもっと広い社会に向けていれば現実は変わっていたのかも知れない。今となっては悔やんでも仕方のないことだが。
私は知識の共有で少しでも職場を良くしたい、仕事をやりやすくしたいと関連する本を読むなどした。社会人初期の若い頃、職場がオープニングスタッフ、新規事業のメンバーとして働いたときはまだ職場のローカルルールも無く、職場作りに知識の共有が役立っている実感があった。しかし20代の後半位から働いた職場は現状維持が第一、小難しいことはするなと逆に煙たがられるようになった。その頃言われた極めつけの一言「お前は本ばかり読んでるから屁理屈が多い」
この言葉は当時意味が解らなかった。
「なんで?仕事で困った事を調べただけなのになんで?」
それ位から人生の歯車が狂ってきた。変なやつ、変わり者という言葉が耳につくようになった。それまではその言葉は自分の個性だと思っていた。問題もなかった。でも20代後半からは他人が自分を排除するために使う言葉に変わった。
そこからだ。知識の共有から周りに合わせる、皆と同じようにしないといけないことが社会での第一優先になってしまった。
そして無駄な時間を過ごした。知識もスキルも深められなかった。
いま
30歳を超えた頃、燃え尽きてしまった。キャラを作るのも、バカを演じるのも付き合うのも、理不尽に耐えるのも。
だから周りと合わせるための自分をやめた。さらに風当たりはきつくなった。私は何のために働いてきたのだろう。何がしたかったのだろう。何もかも失った気分だった。若い頃に見た未来、それは本当に思い描いただけの夢になってしまった。取り返しのつかない時間を使ってしまった。鬱になって休職しそのまま退職した時、他人を恨んだ。憎んだ。なにをやっても分かり会えない人達、職場での差別、何の役にも立たない噂や愚痴、低俗な酒、風俗、パチンコの話、
会社のために勉強して少しでも役立つようにした代償にしてはあまりにもゴミすぎる。こんな人達と同じになりたくない。もう分かり合いたいとも思わない。
過去にあれほど求めた「他人と分かり合うこと」が、逆に苦痛になってしまった。
そして現在、「分かり合うこと」「普通」を諦めた。人生の大半を使って求めたものを諦めた。私には何も無い。
今年、自分が発達障害(ASD)だと分かり、周りと同じ思考でない、物事の捉え方が違うと客観的に認識できた。
過去のうまく行かなかったことをその特性に照らし合わせて、自分が間違っていたことを納得し、肩の荷が降りた気もするがもう今となってはどうでもいいことなのだ。私はすでに「普通」の後追いをやめているのだ。健常であれ発達障害であれ今後の生き方は変わらない。
例えばもっと早く自分の特性を知れたなら、違うやり方があったのかも知れない。でも自分は頑固だから無理矢理にでも周りと合わせようとしたかも知れない。もしくは他人との違いからもっと苦しい二次障害になっていたかも知れない。
そう考えると自分が発達障害だと知れたのが今で良かったと思う。
これから
こんな何も無い、社会からも必要とされない人間になっても生きていきたい。死ぬ気なんて無い。
何のために生きるのか、何が欲しいのか、分からない。
まともな仕事なんて無い。また低俗な話と現状維持と愚痴ばかりの人間に囲まれたくない。そんな人間に迎合することが死ぬよりも怖い。
そんな中でも生きる道を作らないといけない。今までの生きる意味を諦めた。新たな生きる意味もまだ見出だせていない。
だから何をするのも恐い。どこに向かってるのか。どうなってしまうのか。本当は本当に生きる意味なんて無いんじゃないのか?
それでもまだ「分かり合いたい」ということが頭に浮かぶ。
どれだけ排除され拒絶されても、それでも私は誰かと分かり合いたいみたいだ。誰かに役に立ちたい、そう思うことが確かにあるのだ。
だがどうすれば役立てるか分からない。発達障害の特性と過去のトラウマで他人の気持ちがよく分からないからだ。そういった人間性ではないアプローチをしないといけない。そう考えると何らかの有用なスキルが必要だと思うのだ。
今から始めないといけない。もう無駄に使う時間はない。
過去を悔やんでこのまま何もしない未来もある。しかしその先は私が嫌悪する種類の人間に溢れている。そんな世界で生きることになればそこで心が折れた時、簡単に自らの命を断つだろう。長い時間を使った自殺のようなものだ。
そんな未来を変えるためにも、今この現実を全て変えないといけない。そのために何一つ身につけてこなかったスキルを今から身につけていく。会社に頼らず、他人に頼らずそれでも分かり合うために、生きるためにその手段が必要だ。