あの未来に続く為だけの、それだけの人生だ。

悲観と懺悔溢れる 幻想の埒外の辺境地

幻想を見る目を持っていない

 「あんな感じ」「こんな感じ」「○○みたいな」

とても疑問に思う。

みんな何を見ているんだ?何が見えているんだ?

それはその人の脳内での想像、幻想の類だと思うのだが何故それが他人に伝わる?

私には一片も見えない。「それは何ですか?」と質問しても「なんというか」「適当」とか「言葉にできない」と答えられる。

一体なにに納得し合ってるんだ?

しかもその幻想は共有しあえるらしい。

  例えば「幸福」について。

よく聞く幻想は「お金の心配がなく時間に余裕があってストレスのたまらない生活。定期的に旅行も行きたい。」みたいなもの。

この幻想が他人には分かるらしい。私には見えない。

しかもその目的を達成する手段が「宝くじ」らしい。これも幻想の類。

 

「冬場にエアコンを使わないなんて信じられない」

「お昼ご飯を食べないなんて何かの病気か?もしくは金が無いのか?」

「母子家庭で辛かったでしょう?可哀想に。」

 

このような色んな事を言われてきたが全部他人が勝手に思っている幻想。全ての理由を説明してもすんなり納得されることは無かった。「あなたはそう言ってるけど本当はこうなんでしょう?」という風に現実を捻じ曲げてくる。

 

  このような見えない幻想に対して意見を求められるのがとても辛い。理解できないものを理解する材料の無いまま相対するのはとても難しい。出来ることはなるべく相手の思考を想像し、意に沿った答えで茶化すこと。相手の反応に対する対応になるので後手後手になるのは仕方ない。

ここでその幻想に対して自分の意見を言って拒絶されると「あなた変わってるね」(=私はあなたを理解しない)とレッテルを貼られてそれ以上の意思疎通を停止させられるのだ。

 

  最近特に思う。みんなその幻想が見えているのか?なぜ明らかに他人が作り出した幻想を貼り付けられているのに、その通りの言動が出来るのか。幻想を揺るがす人を排除するのか。現実や原理原則よりも見えやすい幻想が持て囃されるのか。都合のいい幻想からより都合のいい幻想へと頻繁に目線が変わるためかいつまで経っも幻想が形を成さない。だから私には見えない。

それなのになぜみんなは「あなたにも同じモノが見えているでしょう?」と強要してくるのか。

自分が今見えている幻想は他人にも同じに見えているはず。この押しつけが私は大嫌いだ。

私以外では同じように見えている、もしくは見ることが可能のようだ。この原理が分からない。しかも一度幻想にハマり込めば中々そこから出てこない。幻想に従う者は迎え入れ、異を唱える者を排除する。どの幻想の世界も同じことをしている。

 

幻想とは「常識」のことか?「みんな」のことか?「普通」のことか?

確かなことは多くは「現実」ではないこと。

幻想を語れば夢を見られ、現実を語れば目を塞ぐ。世の中とはそういうものなのかもしれない。

  私はいつも、何があっても現実を生きる。幻想はもう沢山だ。最近、自閉スペクトラム症ということが判明した。もともと定型発達者の持つ感性が備わっていなかった。幻想なんて見れるはずがない。夢の世界には住めない。

私はいつだって真実の側だった。これからも過去に幻想の側から捻じ曲げてしまった自分の現実の世界を相手にどこまでやれるか試すだけだ。

 

幻想の世界にさよならして

真実満たす現実の世界へ