幸福の閾値に問題がある!
毎度のネガティブなことをなんか吐き出そうかなと思っても最近特にございません。
良いことだとは思いながらあのネガティブ状態の湯水の如く湧く思考の感覚もちょっと恋しく思ったりするところもあったりと。
今回は思いつき。
本題
幸福というのはちょっと大層かもしれないけど私は周りと比べてとても幸福を感じる閾値が低い。結構どんな環境にも順応できちゃう。人間関係の問題が無ければ。最近の貧乏生活で月11万円あればまぁ不満はないかなくらいに生活コストも低い。我ながら「水さえあげてりゃ勝手に育つポトス(観葉植物)」みたいな人間だなぁと思ったりもする。
幸福の閾値
雨風しのげて三食食えりゃあ幸せな人もいれば、人の役に立つことが幸せな人もいれば、金を使うことが幸せな人がいる。
みんなそれぞれ幸福の閾値が違うんだよなぁと思う。
どれだけ多様なライフスタイルが生まれたと言ってもまだまだ大きい社会的な常識、慣習はあるわけで、ある程度似たような人生パターンがある。
正社員前提の人生観、結婚しないといけない世界観、世間から離れられない倫理観などいろんな人と話してもそういった共通部分があるみたい。個人的には堅苦しさを感じたりするんだけど。
みんな各々の思い描く人生=幸福の閾値に達していないから不幸、不満を感じるんだろう。
というか世間の情報が幸福のハードルを上げすぎてるんだよ。
未だにバブル時代の人生設計が基本になってる上に毎年のように物もイベントもあの手この手であらゆることに消費させようとしてくる。
そんなの大抵の人はついていけまへん。
でも、〇〇は持ってて当たり前、知ってて当たり前と勝手に幸福の閾値を世間に上げ続けられてるからいつも不幸な人が多い。
そりゃあ愚痴も言いたくなるわ。ストレス発散で金も使いたくなるよ。
(自分へのご褒美はあんまり意味がわからない。そういう奴に限って他人へのご褒美はしないじゃないか!)
でもそんな世の中、不幸な人ばかりではない。幸福な人もちゃんと存在する。その人達は上がり続ける幸福の閾値を常に超えることができる人か、世間に流されず、自ら幸福の閾値を設定できる人である。
閾値は誰が決める?
自ら幸福の閾値を設定できる人は他人や世間に流されず、幸福をいつでも実現可能なような閾値に設定しているんだろう。
その自分の設定した閾値から物事を判断すれば、無理をせず、不幸なことを感じることも減るだろう。だって自分で設定した閾値なんだから進んで不幸になるようにはしないでしょう?
ではどうやって閾値を設定するか。
それは精神的に自立すること。自分の価値観を持つこと。
言うは易く行うは難し。
自分が思い描いている幸福は社会で幸福と呼ばれているものか?他人に理解されなくても譲れない幸福か?
まずはここから明確にしないといけない。
他人と比べて
・年収が幾らなら幸せ、それ未満は不幸
・職種が立派なら幸せ、それ未満は不幸
・ホワイト企業勤務なら幸せ、それ未満は不幸
・人脈が多くて幸せ、それ未満で不幸
・恋人がいて幸せ、それ未満は不幸
.........。(キリがない)
社会的な幸福は全部相対的なもの。他人の幸福の閾値から自分を見ている。
そういう人はいつも満たされていない。だから自分の思い描いた幸福と似たものを無意識に選んで見てしまう。いわゆるカラーバス効果ってやつ。
その幸福が常に一定のものだったら、いつかはそこに辿り着けるかもしれない。しかし世間がそうはさせない。
仕事でいえば、公務員が良いから一流企業のサラリーマンが良いとなり、今やフリーランスが良いと言われる世の中になっている。ここ10年くらいで。
それ以外でも幸福の形が変わり続けて、生き方も多様だとネットで分かるようになってるんだから他人の幸福の閾値が目の前に多すぎて本当の自分の幸福なんて解らなくなる。
他人の幸福(に見えるさま)が自分の幸福と同じと考えるのは良くない。
それは移り変わるもの。そしてとても脆い幸福だ。
人に流される生き方ともいえる。他人の閾値が変われば自分の閾値も変わる。
それはいつも閾値を追いかける生き方だ。
閾値を超えていない状態すなわち不幸、それを感じながら追いかけないといけない。中間なんてないんだよ。
こういった他人軸の幸福では絶対に己の人生の閾値は満たせない。
いつまでも続く追いかけっこだ。
その他人軸の幸福でなく本当の自分の幸福の追求、言い換えれば自分の人生の指針をどうすればいいか。
もう「自分だけの幸福の閾値」、自分軸を作るしかないじゃんよ。
自分で決める閾値
はっきり言って分からん。私も閾値を探している最中だから。
でも朧気ながら思うことはある。
それは「自分はどこまで失っていいか」であると思う。
「〇〇だけは譲れない」を逆から考えた発想かな?
「どこまで失えるか」
失って気づくことはたくさんある。でも失っても大したことないものもたくさんある。
失わないと本当に大事なものなんて分からない。
今まで自分に詰め込んできたものは本当に自分の意思で選びとってきたものか?他人に世間に、勝手に詰め込まれたものでは無いか?
失わないと「余白」ができない。心に空きスペースがないと自由な発想はできない。窮屈な凝り固まった観念か、他人の受け売りしか思い浮かばない。
失うことで失っちゃいけないものが分かる。
例えば交友関係。
世間は友達や人脈が多い方がいいという風潮だが、全くそんなことは無い。
人はそれぞれ違う考え方をしている。自分と全く同じ考え方の人なんていない。
むやみに広げた交流は時間を奪い、精神力を奪い、己の価値観をブレさせる。
質の悪い人間関係は人生の次のステージに進みたい自分の足枷となる。
それでも人は人間関係を簡単に断ち切れない。友達は増やすものという常識、情もあると思うが、現状維持への執着がある。失う恐怖があるのである。
ただ必要が無いという訳ではない。
自分の幸福の閾値が定まった上で友達を選ぶことが大事だ。
本当に自分に必要な人を選ぶことができるようになる。
得る利益も失う覚悟もできているから積極的に交流ができるようになる。(と思う)
難しいキャラを演じなくて済む。
本心で語り合える友人は人生には必要だ。
どんな物事も人は現状維持もしくは増やす事に価値を置きすぎる。永遠に失うことなく生きられるならそれでいい。でも失うというイベントは絶対に起きる。そこで何を失うか、失っちゃいけないかを選ぶ基準こそが幸せの閾値なんだと思う。
どんな時も失っちゃあいけないもの、他人には譲れない守るべき価値観を指針にして幸福を追求すればいいと思う。
幸福の閾値に問題がある!
真の本題
ここまでは長い前振りである!
幸福の閾値。前述したが自分でもよく分かりません。
社会人生活で勤務先の閉店、倒産、焼失なんか経験しちゃって私の職歴滅茶苦茶です。
しかもどの会社でも変人扱いされて居心地悪いったりゃありゃしない。
職を転々、30代。夢も希望もありませんときたらもう他人の閾値にすらすがれない。
こりゃあどうしたもんかと考えても答え出ず。自分の心のままに生きているとポトス人間の出来上がり!(落語調)
という経緯です。
このまま生活を合理化し、月10万円で生きれたらいいや。なんて思った時期もありました。なんせ何故か器用にどんな環境でも生きれてしまうのです。失うことに慣れすぎて環境が変わるのにあまり抵抗がない。
でも最近ふと思うんです。「うわっ・・・、私の幸福の閾値、低すぎ・・・?」と。
ここ2年くらいで金を失い、人脈を失い、サラリーマンの適正を失い、趣味も失って、今の幸福の閾値は「生存第一」に設定されています。
失い続けてはきましたが「失っちゃいけないもの」はなんとか守れてます。そこに大きな不満がないんだから私の幸福の閾値は〝 ここ〟なんでしょう。
ただそれも寂しい気がする。本当はもっと人と分かり合いたい。でもこの閾値は周りと違いすぎると感じている。だからこれからは無理せず意識して少しずつ閾値を上げていきたい。その過程で新たな発見もあるでしょう。そこで分かり合える人に会えたらいい。
世の中の「普通」とは今は仲良くなれないがいつか分かり合える時が来ると信じている。
それまではまた会う日まで。
十分に失った。十分に余白もできた。生存できてる。本当に失うものなんて何も無い状態。
さて、余白に何を詰め込もうか。私の人生は歩むのではない。好きなものを詰め込んでいくんだ。余白を好きなもので埋める人生だ。