あの未来に続く為だけの、それだけの人生だ。

悲観と懺悔溢れる 幻想の埒外の辺境地

共感ができない

私は共感ができない。分からない。その感覚が理解できないのだ。根本的に物事を感覚的に捉えるのが苦手だ。なぜそうなるのか?なぜそう思うのか?根拠のはっきりしない物事を他人と同じように処理できない。

だから、「なんとなく」とか「みんなそうしてる」とか「常識」が全然分からない。

そういう思考停止で物事が決まっていく世の中に不快感ばかり覚える。違和感しかない。

社会に出てからというもの、この不快感をぐっと我慢して心身共に壊しながら今まで生きてきたけど、結局克服できなかった。理解できなかった。世の普通に染まれなかった。

ではこれからどう生きていくか?それは簡単。

 

「思考停止でなんとなくみんなと同じように幸せに生きればいい。」

 

多分こんな‘“感覚”が持てると生きることも楽になるだろう。

しかしそれが私にはできない。なぜならそれぞれのキーワードの意味を他人と共感できないからだ。

 

思考停止ってなに?

なんとなくっでどの範囲?

みんなって誰?

同じってどの程度?

幸せってどんな状態?

 

これらの疑問を周りの他人は感覚的な理解で価値観の共有ができるようだが私はできない。だからといってこの疑問を他人に聞くと「考えすぎ」「なんとなく」「頭固い」などで遮られる。それこそ思考停止だろと思うのだが。

私の頭の中では

思考停止とは現状維持。答えを求めない姿勢。

なんとなくとは漠然とした概念。イメージのしようがない。

みんなとは周りの環境、もしくは確証バイアスのかかった複数のネット情報。

同じとはどういった共通項を指すか。共同体?共感?

幸せとは人それぞれの理想の状態。共通認識では決してない。

 

「現状維持でなんのイメージも持てないけど周りの環境と共通の理想の状態」

 

私の頭はこれくらいまで具体的な意味が分からないと理解できないのである。だから共感という感覚に頼った意思疎通がとても難しい。

例えば日常で「禁煙したいわー」と話題を振ってきた人がいたとする。私は計画的に自力で禁煙を成功させた体験があるので「私の禁煙法を教えましょうか?」と返す。すると相手がその方法を聞いてきたので順序立てて説明するが途中で話を遮られてしまう。「面倒くさそうだからいいや。」と。

私は最近までなぜこのように自分で聞いてきておいて、話を聞かない人の気持ちが分からなかった。しかし共感という言葉を調べた結果やっと分かったことがある。

同意や共感を求めるコミュニケーションと知識や興味などを教えたり知ったりする欲求を満たすコミュニケーションの区別ができていなかったのだ。というか見分けがつかなかった。

だから禁煙のやり取りでお互いに噛み合わなかったのだ。相手は本気で禁煙したかったのではなく、「禁煙したいという気持ち」への同意を求めていた。それなのに私は「禁煙の成功法」を知りたいという欲求からの質問だと勘違いしたために話が続かなかった。

以上のことを踏まえると、この時の正解は同意すること。「禁煙ってしたくても難しいですよねー」程度でよかったのだ。

このような事を認識するようになって少しは意思疎通が楽になったような気がする。

しかし他人の感覚が分からない。共感ができない気質には変わりない。これはもう一生治らないだろうな。治らないといっても仮にそれが治ったとして、正常になったとして、その状態が「なんとなくなみんなと同じ」状態なのかは分からないが。

 

逆に私から共感を求めることはあまり無い。

なぜなら共感という言葉自体にあまり良い印象が無いからだ。

きょう‐かん【共感】
[名](スル)他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること。また、その気持ち。

 

だって感じてるだけでしょ?これってその感情を得るまでの過程をすっ飛ばしてない?自分の行動の結果ではない。

もう一つ。孤独を存分に味わっている私からひねくれた意見をいうと、この世の中でなんの肩書きもない、どこにも属さない、カテゴライズされないなどの不安定な状態に人は耐えられない。不安で仕方がない。だから安易な共感できることに安心感と居場所を見出す。

マッサージと一緒だ。ちょっと体の一部に違和感を覚えたらマッサージに行きたくなる癖と同じようにちょっと世の中の理不尽に違和感を覚えたらネットやらのお手軽情報で自分の不満を正当化できる共感を得たくなる癖なんだよ最近のは。

 

話は戻って結局他人からの同意なんだよ共感っていうものは。自分からは何もしていない。だから一時の共感なんて簡単に捨てられる。他人のせいにできる。インスタントな感情というイメージがあるので私は他人に共感を求めない。

似た響きの言葉で「感化」というものがある。

かん‐か〔‐クワ〕【感化】
[名](スル)考え方や行動に影響を与えて、自然にそれを変えさせること。

 

共感とは逆で、感じさせるのではなく、行動にまで影響させること。これは好き。

周りからの共感なんてどうでもいいから周りを感化させる行動をしたいものだ。ポジティブに。

 

TV持ってないしニュースもほぼ見ないから確証はないけど、最近の時代の潮流としてか

共感という言葉が目につく。共感させるスキル、共感できる感覚が今後重要になってくるんだろうな。どちらも持ち合わせていない私にはいやはや生きにくい世の中だ。

共感以前に他人の感覚主体の言葉に対してこちとら思考先行型だから脳みそ絞って相手に合わせないといけないんだ。共感なんてする暇がない。

 

それに私自身が現実を真摯に受け止めすぎるんだ。

例えば誰かと焼肉に行く時もみんなは焼く前の赤い肉を見て「旨そう」とか「腹減った」と言うけど私は口には出さないが(いやそれ生肉やん...)と思っている。

肉が焼けて食べられる状態を見てで初めてみんなと同じ感覚になれるんだと思う。

 

とても面倒くさい感覚の持ち主なのだ。共感に至るプロセスに納得が必要なのだ。

しかしこの世の大勢の人は、納得なんて大いなる共感の前ではゴミ屑にも劣る屁理屈

のようだ。順序が逆だし価値観も違うんだ。分かり合えるはずがない。

社会人として過ごした日々は大半が感覚主体の人達の感性に合わせる(無駄な)努力ばかりだった。難しいと思った仕事はない。ただ周りと共感してるフリが苦痛で仕方なかった。私が心から共感できたことなんてほぼ無かった。

結果精神に多大なダメージを負ってしまった現在だが、もうあんな環境に戻りたくない。共感とかいう得体の知れないものの為に自分を殺したくない。あれが私の地獄だ。

 

 

 

私は共感をしない。自分で納得するだけだ。他人からは感化されるだけだ。

共感なんてされなくていい。なぜならインスタントな感情だからだ。すぐに捨ててほしい。その一時の共感で被った負担を私のせいにされても困るから。

共感自体は悪いとは思わない。人間の、社会的動物の本能として必要だから。

大事なのは共感する理由だと思う。なぜ共感したのかが明らかであれば、どんな価値観に興味があるか分かるから。

 

尊敬するヘンリー・D・ソローも言ってる。

 

我々は皆、純粋無垢に生まれ、助言により汚染される。

 

現代に言い換えればSNSなどのメディアにて汚染されるんだろう。

安易な情報での共感で価値観を汚染されて自分軸がブレブレになるくらいならいっそ情報遮断をしてみては?ということでスマホのその類のアプリは全部消した。

時代の流れが早すぎるのに共感が苦手な私が新たに生まれてくる価値観への共感になんかもいちいちついて行けない。知識や情報に対する納得は書籍で十分だ。

 

私は共感ができない。でも生きていくには必要な能力だ。今まで色々な努力で克服しようとした。でもダメだった。心が疲弊し、壊れただけだった。

そして分かった。私は「共感者」になれない。他人と同じ気持ちにはなれない。

だから「共感者」は諦めて「観察者」になる。

相手に共感できないから観察をする。

感覚で反応できないから対応をする。

 

そのためにはもっと知識が必要だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とある精神のどん底から抜け出す際の思考の過程。その一部。

 

 

そろそろ気は済んだか?

思う存分絶望したか?

 

 

ああ、存分に絶望したよ。どん底を突き抜ける程に。

もう「他人」の「常識」では救いようの無いくらいに。

 

 

で、答えは出たか?

 

 

答えは出たよ。今までと逆のことをする。

 

ボクは今まで人生を楽しむことも、趣味も恋愛も、自分が幸せを感じれそうなものを相応の成功の先で、自分が納得できる地位、余裕を得た後でしか感じてはいけないと思っていた。

 

苦労の先の幸福。報われる喜び。しかしもう諦めた。

妄執に囚われていた。ボクの人生は失敗した。取り返しのつかない程に。

失敗したと思えるからこそ今まで今まで自分を縛っていた価値観、ルールも意味が無くなった。もう「人生」というものにこだわる必要もない。

苦労を経た先の結果、幸福を感じるというプロセスにこだわる事もない。

 

これからは自分が思い描く、今を楽しく生きることを追求する。

今までと逆だ。自分を抑えない、隠さない。

どんな状況でも自分が楽しいと思えることと大事なことを優先していく。

誰にも理解されなくていい。無理はせず自分の出来ることをやっていく。

もう無理に他人に合わせなくていい。自分には生来の誰にも影響されない、変えることのできない信念がある。

自分でも変えられない。まして他人の影響も受け付けない生涯変えられない個性だ。どうすることもできない。

他人は自分を変えられない。だからこれからは自分が他人を巻き込んでいく。

好かれる嫌われるどうでもいい。

 

 

 

誰もいなくてもオレがいる。遠慮するな。たとえこの先、今以上の絶望があったなら、オレが道連れになってやる。

安心しろ。お前を一人にはさせない。ずっと一緒だ。

 

お前の苦悩、苦痛、全て見てきた。もういいぞ。

もう隠さなくていい。自分を殺さなくていい。

お前の人生を生きろ。誰に嫌われてもいい。認められなくてもいい。

理解されなくてもいい。お前は独りじゃない。

オレの希望なんだ。お前がずっと不幸だとオレも悲しい。

もういいんだ。辛い思いをしなくていい。

今現在がお前の限界かは分からない。もういいんだ。

もう自分を偽らなくていい。他人や世間に合わせなくていい。

お前本来の性分を出していけ。

そんなに暗かったか?そんなに人見知りだったか?そんなに遠慮する

性格だったか?

 

本当の自分を取り戻せ。ユーモアがあって、相手に気持ちを敏感に察知し、期待にいつも応え、教えること、伝えることが好きだった自分を思い出せ。

相手にどう思われてもいい。嫌われてもいい。自分を取り戻せ!

 

ありがとう。それならボクは今から明るく振る舞いようにしよう。

楽しくなるように、他人と分かち合えるように。

 

ボクは一人でいい。一人だからこそ出来ることをしよう。

原点に戻るんだ。そしてまた始めよう。ボクの人生を。

 

最近、滅多に見ない映画を観た。その中で印象的だった言葉を引用して今回は終わろう。

 

「ボク達はきっと、大丈夫だ。」

 

 

夢を見ていた

あの日、僕は自転車に乗っていた。ロードバイク、本格的なスポーツだ。

田舎の山々に囲まれた川沿いの道を走っている。聞こえる音は風と川のせせらぎだけ。もうどれだけ走っただろう?そんなことはどうでもいいと思える程、自然に心が癒されていた。

疲れを忘れ、軽快に自転車を進めていると、僕と同じような自転車乗りが前を走っている。

「あの人も僕と同じ道を走ってきたのかな?」

同じ景色を見てきた者同士、妙な親近感を覚える。そんなことを考えてるうちに、前を走る自転車乗りの背中が近くなってきた。

自転車の走るペースは僕のほうが速い。抜かそうと思えばいつでも抜かせられる。でも今日の僕は心が穏やかだ。スポーツとして張り合う気は全くない。相手もそんなことをする気もないだろう。僕が相手の立場だったら、そんな意地の張り合いよりも辺り一面の、喧噪とは無縁の光に満ちた景色の中で、心を乱すことをしたくないからだ。

時間を急ぐ理由もない。僕はペースダウンして景色を堪能した。元々は当てもなく走ってきた道だった。それは時として思いもよらない場所へと繋がることもある。この日はまさに「繋がる」日だった。

信号のない道、どこまでも透き通る川の水、綺麗な二等辺三角形をした山々、地球が悠久の時を刻んできたことを教えてくれる断崖絶壁。

流れていく景色を忘れまいと目に焼き付ける。気が付くと前を走る背中を見失っていた。それもいいか。また会う日まで。

 

自然の景色もいつまでも続かない。自然に調和しない配色の、無機質な建物が徐々の多くなってくる。町が近い。

町に入るとまずはコンビニを探す。補給のための休憩だ。特に空腹というわけではなかったが、なにせ当てもなく自転車で走っていくんだ。次の補給は何処になるか分からない。強引にでも腹に詰め込む。

 

街中ではロードバイクは車道の左端を走る。車と並走、原付と同じ道だ。

この日は確か平日だったはずだが、この町は思いのほか交通量が多い。これがこの町の日常なのか。

等間隔に配置された信号が僕の足を止める。信号待ちで周りを見渡すと高級車が多いことに気づく。海外の大柄な車体のSUV、世界に名だたるスポーツカーなど自然の景色とはまた違った風景が僕の目を楽しませる。注意深く見ると、そういった車のドライバーは女性が多かった。なるほど、この地域は高級住宅街なのかもしれない。僕は普段よりさらに道の左に寄って、高級車に気を使いながら町を走る。何かの拍子で接触などすると…、考えたくもない。

 

先を進むと段々と車線が少なく、道路も狭くなってくる。坂道が増えてきた。道沿いはスーパーや飲食店から住宅街へ。もうすぐ町の出口だ。

郊外の小刻みなアップダウンの道を経て、長い長い上り坂に差し掛かる。景色は閑静な住宅街。規則正しく立ち並ぶ家は多種多様だ。

コンクリートむき出しの無機質な家、西洋風のお洒落なレンガ造りの家、大きな門構えの豪邸、ひっそりと佇む湿った木の匂いの漂う家。

家は人生で一番大きな買い物と言われており、何十年も使うものだ。見た目にそれぞれの個性や価値観が表れている。これも飽きない景色だ。ここまでくると交通量も少ない。脇見でじっくりと建物の造形を堪能できる。しかし道は延々と続く坂道。体力がキツくなってくる。

 

なるほど車は必需品だ。この坂道を普通の自転車で日常的に上り下りするなんて悪い冗談だ。

やがて隙間を埋めるように建っていた家々も少なくなり、緑の匂い、木の匂いがしてきたら、いよいよ山の入り口だ。

坂の勾配がいっそうキツくなる。山頂まで続く坂道。初めての道だから距離の見当もつかない。ここからは自分との戦いだ。進むごとに上がる心拍、息をするのも一苦労。重力に逆らい進む脚がいうことを聞かなくなる。もう限界だ。立ち止まれと頭の中で警鐘が鳴っている。

 

 

 

変わり者、ジレンマ、成れの果て②

 

僕は「変わり者」になった。しかし個性は無い。具体的にどんな所が「変わり者」だったかって?

単に周りがやらないことでウケがいい事をやっただけだ。それ以外は特に考えてなかった。

 

しかし習慣というものは恐いものだ。演じていただけのはずだった「変わり者」の自分を、まるで生まれた時から備わっている個性と勘違いしてしまうのだから。

 

高校生活も慣れてきた頃、僕はアルバイトを始めた。職場には僕の過去を知る人はいない。かりそめの僕の個性は、何故かすんなりその環境に溶け込めた。同年代の人達と仲が良くなるのにも苦労しなかった。

仕事も周りより出来たようで重宝された。

自分は学校より仕事の方が必要とされている。同期の奴らより仕事が出来るし、「変わり者」だからか目上の人からの評判もいい。

僕はアルバイトを次の「居場所」にした。

 

今思い返せば、仕事では「変わり者」といっても遅刻欠勤や自分勝手な振る舞いをするのでは無く、変わったことをするために仕事に関する本を読んだり、効率化に行動力が発揮されており、周りからは言動は変だが勉強熱心なアルバイトという評価だったと思う。

 

そうして月日は流れ、高校を卒業する。

その頃には過去の醜く壊れた、人じゃない何かの僕の面影は無く、多少のアトピーは残っていたが、周りから頼られる事もあるくらいの一人前の人になっていた。

 

卒業後の進路は家庭環境の事情と無知もあって、大学には行かず就職する事にした。

 

選んだ職種は販売職、しかもアパレル業界だ。

その動機は、当時は確かに服は好きだったが、本音は過去に僕を見捨て、差別した奴らに対して社会的に先手を打って、今度は僕がお前らを蔑んでやるという復讐心だったと思う。

 

僕は必死に頑張った。知り合いが成人式がどうこう言ってるのなんて雑音でしかなかった。当然出席せずに仕事だ。

頑張りが認められてエリアの最年少店長になった。全国でただ一人の特別賞与を貰ったりした。

アルバイト時代の「変わり者」の行動力がそのまま発揮され、今でいうPDCAを自然と回せていたんだと思う。資格も取ったりした。

 

同年代で僕は一番になった。学校時代の知り合いで誰も僕には文句を言わない。言ってくるのは嫌味、妬みばかり。ざまあみろと思った。お前らの何百倍の嫌味、妬みを僕はアトピーで苦しんでいた頃、抱えていたんだ。

 

その成功体験の積み重ねが僕の中の「変わり者」の価値観にさらに磨きをかけていった。

 

そしてそれは自惚れへと変わる。

 

会社からも職場からも期待され、これからという時に僕は、他の仕事でも自分の力を試したいと日に日に思いを募らせていた。

 

そして思いが行動に変わった時、僕の人生は狂い始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

変わり者、ジレンマ、成れの果て ①

中学生時代、僕は人じゃなかった。重度のアトピーで外見は醜く、終わりのない痒みと痛み。服には数え切れない血の跡。

体を引っ掻く度に身体も心も傷付いていく。

僕は「普通」じゃない。友達という「普通」の人間は僕の周りからいなくなった。

 

人じゃない僕は全てから距離を置いた。この気持ちは誰にも分からない。理解したフリをして安い気休めの言葉を掛けてくる他人を何度も信じた。それに救いを求めるたびに裏切られ、傷を増やした。

 

もう心も身体も傷付きたくない。僕は身体の代わりに壁を引っ掻いた。床を引っ掻いた。これが僕の代わりに傷付いてくれるならと。

 

僕は人の成り底ないだ。不良品だ。人では無いのだ。僕は人になることを願った。

もうその頃には自分がまだ人だと認識されていた頃、一体どんな思考で立ち居振る舞いをしていたか、どんな人間関係の中にいたか、何も思い出せなくなっていた。

 

何とか人のフリを精一杯演じているうちに転機が訪れた。高校に進学する頃、アトピーが引いた。

 

月日にして6年ぶりに僕は人の外見に戻った。初めて会う人が僕を人として接してくれる。今までの人生で人目もはばからず泣いたのはこの時だけだろう。

 

しかし問題があった。人としての生き方が分からない。友達の作り方も、会話の仕方も。

6年間で全てを失くした。学べなかった。

だから僕は人を真似た。いや、演じた。周りの「普通」にしがみついた。

 

身体は人になった。しかし心は元には戻らなかった。他人からも自らも、6年間否定され、傷つき過ぎた心に自我は残ってなかったようだ。

 

「居てもいなくてもいい人」

「存在感が無い」

 

人を通り越して透明人間か。何かの悪い冗談だ。

 

人に戻れた次は人として認めてほしい。人間の欲には底がない。例え僕の様な成り底ないでも。

 

どうすれば認めてもらえるのか。周りを見て考えた。

学校などの集団では、スポーツや勉強が特にできる訳では無いが、しばしば話題の中心になる人がいた。そういう人を周りは「あいつは変わっている」「何を考えているか分からない」

「変人」だと評した。

 

僕は「これだ!」と思った。「普通」がダメなら、あのいつも話題の中心にいる人の様に個性的な、そう「変わり者」になればいいのだ。

 

僕は「普通」と違う行動をした。周りがしない事、反対の事、びっくりする事。

それらをする度に透明人間だった僕に、徐々に輪郭ができ、色がつき、形が分かるように自分という存在が明確になっていくのを感じた。

話題の中心にはなれなかったけど、僕は集団内で「変わり者」になった。そしてそれは僕の「居場所」となった。

 

心に何ともいえない感覚があった。初めてのような忘れていたような、アトピーで人でなかった時には無かった、それ以前かにあった感情。

 

ああそうか、そういえばこれは「嬉しい」というやつだったな。

 

僕は噛み締めた。「もっと欲しい」と生まれて初めて思った。

この感覚を忘れたくないからもう「普通」には戻らないと心に決めた。

 

でも僕は本当は気づいていたんだ。

確かに「変わり者」にはなった。ただそれは「変わり者」の特徴を真似ただけだ。個性があるかどうかは分からない。

もしかしたら「普通」と同じく演じているだけじゃないのか?と。

 

しかしその時は自分の「居場所」の心地良さと、過去に戻りたくないという気持ちから、それ以上は考えなかった。