あの未来に続く為だけの、それだけの人生だ。

悲観と懺悔溢れる 幻想の埒外の辺境地

私にスキルが何一つない理由

30代も半ば近くになると人生についての考え事も大きく変わるなとしみじみ感じる今日このごろ。

 

去年、残業まみれ嘘まみれのブラック企業を退職し、自分のキャリアに終止符を打った。会社の空気が察せない。言葉の意図も解らない。最近自分がASDという発達障害と分かったがその前から「変わり者」といろんな職場で呼ばれ、その場その場でキャラを演じてきた。本心では相対せない。キャラを作らず話しかけるといつも自分から話しかけると「…?何言ってるの?」という反応をされた。

それが嫌になって自分から話しかけることができなくなってしまった。それ以降どんどん他人との意思疎通が難しくなっていっている気がする。その影響か最近はどこに行っても孤立気味で一人の時が長くなった。まぁ大人数は空気読めないし苦手だからそこまで気にしていないんだけど。

ただふと昔を思い出した時、苦労して周りに“合わすこと”ができてた時期もあってその時は楽しいこともあった。そんな環境に限って倒産とか火事で燃えたりして長く続かなかったのはこれはもう運命?宿命?みたいなものとして受け入れるしかないのかな。

それ以外に思い出すこと。辛かった思い出しかない。

 

スキルが何一つ無い理由

最初から結論を言うと

過去、私はずっと普通になりたかった。ただそれだけ。

私は周りと比べて変わってる、劣っているのかも知れない。でも周りを手本に学習することで私もいつかみんなとわかりあえる、笑いあえる未来があると信じていた。

だからその周りと同じなれるように努力した。努力してしまった。とても長い時間と心身を捧げてしまった。

結果が今の現状、際立ったスキルはなにもない。そして周りには誰もいない。信じた未来はなかった。

 

過去を振り返る 

みんなの当たり前、それが出来なかったから出来るようになるよう努力した。

努力した所で結果はみんなの当たり前がやっとできるようになるだけ。普通になるだけ。

何のプラスもない。みんなと同じ基準、ゼロに立つために多大な時間を要しただけ。差別化できるスキルなんて身につける暇なんてあるわけなかった。

当事者以外には理解されないことは承知だ。何もしてこなかったという言い訳にも見えるだろう。ただ私は本気だった。なぜなら私は他人の役に立つことが好きだったからだ。

具体的に言うと人に情報提供するのが好きだった。周りがやらないことをして得た知識を共有すること、それが日々のモチベーションだった。

学生時代、重度のアトピーからほとんど人と接触できなかった時期から、回復して周りに認知してもらうためにとった行動だった。

その時はじめて「一人の人間」として扱ってもらったような気がしたのだ。

この体験は自分に生きる意味を与えた。と同時に自分を縛る鎖になってしまったと今は思う。

 

自分の得た知識、その共有が社会に出てからもモチベーションとなった。それを他人や会社に求めてしまった。本当はそれをもっと広い社会に向けていれば現実は変わっていたのかも知れない。今となっては悔やんでも仕方のないことだが。

私は知識の共有で少しでも職場を良くしたい、仕事をやりやすくしたいと関連する本を読むなどした。社会人初期の若い頃、職場がオープニングスタッフ、新規事業のメンバーとして働いたときはまだ職場のローカルルールも無く、職場作りに知識の共有が役立っている実感があった。しかし20代の後半位から働いた職場は現状維持が第一、小難しいことはするなと逆に煙たがられるようになった。その頃言われた極めつけの一言「お前は本ばかり読んでるから屁理屈が多い」

この言葉は当時意味が解らなかった。

「なんで?仕事で困った事を調べただけなのになんで?」

それ位から人生の歯車が狂ってきた。変なやつ、変わり者という言葉が耳につくようになった。それまではその言葉は自分の個性だと思っていた。問題もなかった。でも20代後半からは他人が自分を排除するために使う言葉に変わった。

そこからだ。知識の共有から周りに合わせる、皆と同じようにしないといけないことが社会での第一優先になってしまった。

そして無駄な時間を過ごした。知識もスキルも深められなかった。

 

いま

30歳を超えた頃、燃え尽きてしまった。キャラを作るのも、バカを演じるのも付き合うのも、理不尽に耐えるのも。

だから周りと合わせるための自分をやめた。さらに風当たりはきつくなった。私は何のために働いてきたのだろう。何がしたかったのだろう。何もかも失った気分だった。若い頃に見た未来、それは本当に思い描いただけの夢になってしまった。取り返しのつかない時間を使ってしまった。鬱になって休職しそのまま退職した時、他人を恨んだ。憎んだ。なにをやっても分かり会えない人達、職場での差別、何の役にも立たない噂や愚痴、低俗な酒、風俗、パチンコの話、

会社のために勉強して少しでも役立つようにした代償にしてはあまりにもゴミすぎる。こんな人達と同じになりたくない。もう分かり合いたいとも思わない。

過去にあれほど求めた「他人と分かり合うこと」が、逆に苦痛になってしまった。

 

そして現在、「分かり合うこと」「普通」を諦めた。人生の大半を使って求めたものを諦めた。私には何も無い。

今年、自分が発達障害ASD)だと分かり、周りと同じ思考でない、物事の捉え方が違うと客観的に認識できた。

過去のうまく行かなかったことをその特性に照らし合わせて、自分が間違っていたことを納得し、肩の荷が降りた気もするがもう今となってはどうでもいいことなのだ。私はすでに「普通」の後追いをやめているのだ。健常であれ発達障害であれ今後の生き方は変わらない。

例えばもっと早く自分の特性を知れたなら、違うやり方があったのかも知れない。でも自分は頑固だから無理矢理にでも周りと合わせようとしたかも知れない。もしくは他人との違いからもっと苦しい二次障害になっていたかも知れない。

そう考えると自分が発達障害だと知れたのが今で良かったと思う。

 

これから

 こんな何も無い、社会からも必要とされない人間になっても生きていきたい。死ぬ気なんて無い。

何のために生きるのか、何が欲しいのか、分からない。

まともな仕事なんて無い。また低俗な話と現状維持と愚痴ばかりの人間に囲まれたくない。そんな人間に迎合することが死ぬよりも怖い。

そんな中でも生きる道を作らないといけない。今までの生きる意味を諦めた。新たな生きる意味もまだ見出だせていない。

だから何をするのも恐い。どこに向かってるのか。どうなってしまうのか。本当は本当に生きる意味なんて無いんじゃないのか?

それでもまだ「分かり合いたい」ということが頭に浮かぶ。

どれだけ排除され拒絶されても、それでも私は誰かと分かり合いたいみたいだ。誰かに役に立ちたい、そう思うことが確かにあるのだ。

だがどうすれば役立てるか分からない。発達障害の特性と過去のトラウマで他人の気持ちがよく分からないからだ。そういった人間性ではないアプローチをしないといけない。そう考えると何らかの有用なスキルが必要だと思うのだ。

 

今から始めないといけない。もう無駄に使う時間はない。

過去を悔やんでこのまま何もしない未来もある。しかしその先は私が嫌悪する種類の人間に溢れている。そんな世界で生きることになればそこで心が折れた時、簡単に自らの命を断つだろう。長い時間を使った自殺のようなものだ。

そんな未来を変えるためにも、今この現実を全て変えないといけない。そのために何一つ身につけてこなかったスキルを今から身につけていく。会社に頼らず、他人に頼らずそれでも分かり合うために、生きるためにその手段が必要だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

幸福の閾値に問題がある!

毎度のネガティブなことをなんか吐き出そうかなと思っても最近特にございません。

良いことだとは思いながらあのネガティブ状態の湯水の如く湧く思考の感覚もちょっと恋しく思ったりするところもあったりと。

 

今回は思いつき。

 

本題

 

幸福というのはちょっと大層かもしれないけど私は周りと比べてとても幸福を感じる閾値が低い。結構どんな環境にも順応できちゃう。人間関係の問題が無ければ。最近の貧乏生活で月11万円あればまぁ不満はないかなくらいに生活コストも低い。我ながら「水さえあげてりゃ勝手に育つポトス(観葉植物)」みたいな人間だなぁと思ったりもする。

 

幸福の閾値

雨風しのげて三食食えりゃあ幸せな人もいれば、人の役に立つことが幸せな人もいれば、金を使うことが幸せな人がいる。

みんなそれぞれ幸福の閾値が違うんだよなぁと思う。

 

どれだけ多様なライフスタイルが生まれたと言ってもまだまだ大きい社会的な常識、慣習はあるわけで、ある程度似たような人生パターンがある。

正社員前提の人生観、結婚しないといけない世界観、世間から離れられない倫理観などいろんな人と話してもそういった共通部分があるみたい。個人的には堅苦しさを感じたりするんだけど。

みんな各々の思い描く人生=幸福の閾値に達していないから不幸、不満を感じるんだろう。

 

というか世間の情報が幸福のハードルを上げすぎてるんだよ。

未だにバブル時代の人生設計が基本になってる上に毎年のように物もイベントもあの手この手であらゆることに消費させようとしてくる。

そんなの大抵の人はついていけまへん。

でも、〇〇は持ってて当たり前、知ってて当たり前と勝手に幸福の閾値を世間に上げ続けられてるからいつも不幸な人が多い。

そりゃあ愚痴も言いたくなるわ。ストレス発散で金も使いたくなるよ。

(自分へのご褒美はあんまり意味がわからない。そういう奴に限って他人へのご褒美はしないじゃないか!)

 

でもそんな世の中、不幸な人ばかりではない。幸福な人もちゃんと存在する。その人達は上がり続ける幸福の閾値を常に超えることができる人か、世間に流されず、自ら幸福の閾値を設定できる人である。

 

閾値は誰が決める?

 自ら幸福の閾値を設定できる人は他人や世間に流されず、幸福をいつでも実現可能なような閾値に設定しているんだろう。

その自分の設定した閾値から物事を判断すれば、無理をせず、不幸なことを感じることも減るだろう。だって自分で設定した閾値なんだから進んで不幸になるようにはしないでしょう?

 

ではどうやって閾値を設定するか。

それは精神的に自立すること。自分の価値観を持つこと。

言うは易く行うは難し。

自分が思い描いている幸福は社会で幸福と呼ばれているものか?他人に理解されなくても譲れない幸福か?

まずはここから明確にしないといけない。

 

 

他人と比べて

・年収が幾らなら幸せ、それ未満は不幸

・職種が立派なら幸せ、それ未満は不幸

ホワイト企業勤務なら幸せ、それ未満は不幸

・人脈が多くて幸せ、それ未満で不幸

・恋人がいて幸せ、それ未満は不幸

 

.........。(キリがない)

 

社会的な幸福は全部相対的なもの。他人の幸福の閾値から自分を見ている。

そういう人はいつも満たされていない。だから自分の思い描いた幸福と似たものを無意識に選んで見てしまう。いわゆるカラーバス効果ってやつ。

その幸福が常に一定のものだったら、いつかはそこに辿り着けるかもしれない。しかし世間がそうはさせない。

仕事でいえば、公務員が良いから一流企業のサラリーマンが良いとなり、今やフリーランスが良いと言われる世の中になっている。ここ10年くらいで。

それ以外でも幸福の形が変わり続けて、生き方も多様だとネットで分かるようになってるんだから他人の幸福の閾値が目の前に多すぎて本当の自分の幸福なんて解らなくなる。

 

他人の幸福(に見えるさま)が自分の幸福と同じと考えるのは良くない。

それは移り変わるもの。そしてとても脆い幸福だ。

人に流される生き方ともいえる。他人の閾値が変われば自分の閾値も変わる。

それはいつも閾値を追いかける生き方だ。

閾値を超えていない状態すなわち不幸、それを感じながら追いかけないといけない。中間なんてないんだよ。

 

こういった他人軸の幸福では絶対に己の人生の閾値は満たせない。

いつまでも続く追いかけっこだ。

 

その他人軸の幸福でなく本当の自分の幸福の追求、言い換えれば自分の人生の指針をどうすればいいか。

もう「自分だけの幸福の閾値」、自分軸を作るしかないじゃんよ。

 

自分で決める閾値

 はっきり言って分からん。私も閾値を探している最中だから。

でも朧気ながら思うことはある。

それは「自分はどこまで失っていいか」であると思う。

「〇〇だけは譲れない」を逆から考えた発想かな?

「どこまで失えるか」

 

失って気づくことはたくさんある。でも失っても大したことないものもたくさんある。

失わないと本当に大事なものなんて分からない。

今まで自分に詰め込んできたものは本当に自分の意思で選びとってきたものか?他人に世間に、勝手に詰め込まれたものでは無いか?

失わないと「余白」ができない。心に空きスペースがないと自由な発想はできない。窮屈な凝り固まった観念か、他人の受け売りしか思い浮かばない。

失うことで失っちゃいけないものが分かる。

 

例えば交友関係。

世間は友達や人脈が多い方がいいという風潮だが、全くそんなことは無い。

人はそれぞれ違う考え方をしている。自分と全く同じ考え方の人なんていない。

むやみに広げた交流は時間を奪い、精神力を奪い、己の価値観をブレさせる。

質の悪い人間関係は人生の次のステージに進みたい自分の足枷となる。

それでも人は人間関係を簡単に断ち切れない。友達は増やすものという常識、情もあると思うが、現状維持への執着がある。失う恐怖があるのである。

 

ただ必要が無いという訳ではない。

自分の幸福の閾値が定まった上で友達を選ぶことが大事だ。

本当に自分に必要な人を選ぶことができるようになる。

得る利益も失う覚悟もできているから積極的に交流ができるようになる。(と思う)

難しいキャラを演じなくて済む。

本心で語り合える友人は人生には必要だ。

 

どんな物事も人は現状維持もしくは増やす事に価値を置きすぎる。永遠に失うことなく生きられるならそれでいい。でも失うというイベントは絶対に起きる。そこで何を失うか、失っちゃいけないかを選ぶ基準こそが幸せの閾値なんだと思う。

どんな時も失っちゃあいけないもの、他人には譲れない守るべき価値観を指針にして幸福を追求すればいいと思う。

 

幸福の閾値に問題がある!

真の本題

ここまでは長い前振りである!

 

幸福の閾値。前述したが自分でもよく分かりません。

社会人生活で勤務先の閉店、倒産、焼失なんか経験しちゃって私の職歴滅茶苦茶です。

しかもどの会社でも変人扱いされて居心地悪いったりゃありゃしない。

職を転々、30代。夢も希望もありませんときたらもう他人の閾値にすらすがれない。

こりゃあどうしたもんかと考えても答え出ず。自分の心のままに生きているとポトス人間の出来上がり!(落語調)

という経緯です。

 

このまま生活を合理化し、月10万円で生きれたらいいや。なんて思った時期もありました。なんせ何故か器用にどんな環境でも生きれてしまうのです。失うことに慣れすぎて環境が変わるのにあまり抵抗がない。

でも最近ふと思うんです。「うわっ・・・、私の幸福の閾値、低すぎ・・・?」と。

 

ここ2年くらいで金を失い、人脈を失い、サラリーマンの適正を失い、趣味も失って、今の幸福の閾値は「生存第一」に設定されています。

失い続けてはきましたが「失っちゃいけないもの」はなんとか守れてます。そこに大きな不満がないんだから私の幸福の閾値は〝 ここ〟なんでしょう。

ただそれも寂しい気がする。本当はもっと人と分かり合いたい。でもこの閾値は周りと違いすぎると感じている。だからこれからは無理せず意識して少しずつ閾値を上げていきたい。その過程で新たな発見もあるでしょう。そこで分かり合える人に会えたらいい。

世の中の「普通」とは今は仲良くなれないがいつか分かり合える時が来ると信じている。

それまではまた会う日まで。

 

十分に失った。十分に余白もできた。生存できてる。本当に失うものなんて何も無い状態。

さて、余白に何を詰め込もうか。私の人生は歩むのではない。好きなものを詰め込んでいくんだ。余白を好きなもので埋める人生だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【備忘録】 行政書士試験を受けた

 

 

 

ジョジョの奇妙な冒険 第7部 スティール・ボール・ランで1番好きなキャラの数ある名言のひとつ。

 

俺はこのSBRレースでいつも最短の近道を試みたが、「一番の近道は遠回りだった」。「遠回りこそが俺の最短の道だった」。

 

一言で言えば「急がば回れ」ということなんだけどこの「遠回りこそ」ってところに多くの物語が詰まっている。多くの経験を積めたこの「遠回りこそ」が今の結果につながる「最短の道」だった。

そう解釈できるジョジョの名言はやっぱり奥が深いなと。

 

過去の職場で「急がば回れ」の意味を「急いで回転しろ=職場で忙しく動け」のような誤った思い込みで他人に対して多用していた愚かな上司がいたが…まぁどうでもいいです。

 

 

行政書士試験

本題

2019年度行政書士試験を11月10日受験しました。勉強期間は14ヶ月、854時間勉強しました。


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結論:自己採点では不合格。初学者では850時間での合格は無理に近い。

 

勉強はまず最初の2ヶ月は独学で始めました。憲法民法行政法……、どれも面白いじゃありませんか!これは飽きずに続けられそうだと感じ、黙々と続けていたのですが本気で資格取得を考えた時、問題が。

「範囲が広すぎて勉強スケジュールの立て方が分からない。」

ネットで調べても情報は錯綜、勉強法すらも人それぞれ。これは「惑う」と思い、意を決して資格スクールの通学を選びました。

 

通学を選んだ理由

スケジュール管理。それだけです。

何月頃にはこれくらいの進捗、試験何ヶ月前にはこの理解度などとにかく1年で合格を狙えるスケジュールを自分で組めないからスクールに丸投げしました。

スクールに求めたのは本番までに合格を狙える知識が付くかどうかと本番までのスケジュール管理です。合格不合格は自分次第であって学校の責任ではないと割り切って選びました。

 

よくネットで「あの学校は合格率が良い・悪い」のレビューがありますがあれって意味あるんですかね?学校ごとのオリジナルの試験対策の問題などそんなに変わらないし勉強法が分かってるなら市販の問題集で事足りると思うんですよね。

みんな通学や通信を選ぶのは勉強の進め方が分からないから選ぶのであって学校の言う通りにしておけば合格できるなんて保証は一切無いです。だから今回学校を選ぶにあたって重視したのは

“交通の便の良さ”

それだけです。

 

通学に片道30分のところを選びました。

片道1時間かければ市販の対策本を出しているような有名学校もあったのですが、上記の通りどの学校も教材は変わらないし試験当日までのスケジュール管理を優先で考えていたので近場の学校にしました。

 

カリキュラムを追うので精一杯

 試験当日までちょうど1年間、学校を利用した結論から言うと、

 

次年度試験対策開始の初っ端から申し込みましょう。

 

なぜなら行政書士、その他難関国家資格対策は大体1年コースなのですが、構成が基本理解→本格的な試験対策という形になっています。

初学者の場合、始めの基本理解は確かに大事なのですがここに時間をかけても試験本番の得点には結びつきません。さっさと終わらすのが大事です。本格的な上級講座に早く手を付けるためにこの基本理解は年内に終わらせたいです。だから早めに学校に申し込んで本試験に絡む講座を受ける時間を増やしたいのです。

 

私は仕事の関係もあって比較的焦らず取り組んでしまい、後々この時の遅れを痛感しました。学校の先生にも相談しましたが「進捗が遅い!」「もっと早くしろ!」などケツを叩かれる訳でもなく「マイペースでいきまひょ」みたいな悠長な対応にちょっとモヤッとしました。

 

 そして本格的な試験対策。行政書士憲法民法行政法・商法・会社法・一般知識。それぞれから細分化された内容が出題されます。

重要な条文・判例・用語、覚えることは山程あり‥‥。

平日2時間、休日4時間ペース(直前期は独学平日3時間、休日6時間)でカリキュラムに取り組みました。今思えば取り組む時間が少なかったです。

私の場合、本格的な試験対策を始めたのが1月からだったので実質10ヶ月の勉強期間です。初学者ですからテキストの内容を確認しながら問題集をこなすペースが遅い!主要な科目を1つ終わらせるだけで2ヶ月は要してしまいました。

結果的に1ヶ月の遅れを作ってしまいました。(これが痛かった)

全てのカリキュラムを終えた頃にはもう8月。試験まで3ヶ月しか無い!

 

直前期はほぼ独学

 試験まで残り3ヶ月。カリキュラムを消化し終えた後はひたすら練習問題です。

しかし!問題が全く理解できない!それもそのはず、カリキュラムをこなすので精一杯で、内容の一つ一つを深く理解すること無くきてしまったのです。見たことはある、しかし正解できない。この繰り返しでどんどん合格への自信が喪失していく‥‥。

基本に立ち返り、高速で復習を試みるがカバーできるのは過去問の範囲のみ、記述問題なんて全くできない。本当に合格できるのか?

いや、出来るはず!この1年間、月に3日以上勉強を休んだ月は無い!

2時間4時間淡々と積み上げてきたんだ!私は出来る!

とりあえず基本問題だ!過去問だ!時間がないから覚える!暗記する!全体の60%の点数で合格なんだ!いけるいける!

 

 

不合格でした

 

 

こんなこと考えながら本番に臨みましたが‥まぁ甘い考えだったよね、うん。

 

後日の学校での答え合わせは散々でした。

 

敗因は民法と記述、全体的な理解の不足、そして何より1ヶ月のカリキュラムの遅れで最後の詰めが甘かったこと。

1年で合格を目標に掲げて勉強を最優先に日常も変えて臨んでいただけにショックはかなり大きいです。

でも学校はちゃんとスケジュール管理をやってくれたし、何よりこの自分が自発的な努力を1年間を継続できた発見があったしチャレンジしたことに悔いはないです。

 

来年は?

 来年?受けるに決まってるだろが!と。

いまのところ他にやること無いし。

次はスクールは利用せず独学でいきます。大体の勉強スケジュールは分かった。弱点も把握した。あとは理解度を深めるだけ。強くてニューゲームってやつです。

本試験から1週間休んで勉強は再開しています。ただ今回は学校を利用できない、自宅メインで勉強、不合格のショックからモチベーションは本調子ではないです。このままやる気が萎まないよう工夫しないといけません。そして来年は生活環境がかなり変わるのでそこに合わせられるかが心配ですが行政書士の資格は是非とも欲しいので来年の合格を必達目標として勉強を積み上げたいです。

 

この一年は遠回りだったか?

結局、難関資格は独学だろうが通学だろうが難関資格は一筋縄では合格できませんね。近道するために大金払って通学したのに合格に遠く及ばなかったんですから。でも1年で合格してしまう人もいるんですよね実際。私は1年で合格できる要領を得なかった、それだけです。

 

ただ冒頭のジョジョの引用のように結果遠回りになったルートではあるが来年確実に合格するという考えではこの遠回り「こそ」が合格への「一番の近道」となるよう来年も挑みます。

 

 

来年の私、忘れんなよ。

 

 

 

 

 

 

「変わり者」が語る「変わり者」について

 

 

「あなたは変だ。理解できない。何を考えているの?なぜそんなことが言えるの?ねえ、どうしてほしいの?頭の中はどうなってるの?なにが気に入らないの?わたしはあなたの事がてんで分からない。」

 

本当にどうしようもなく「変わってる人」「狂ってる人」はこんなこと言われるんだよ?真顔で。

悪気なんて無い。良かれと思ってやった結果がこれなんだよ?

 

定形の方々の承認欲求、「すいませんが」と同義の前置きとはわけが違う。理解を放棄される言葉なんだよ?

その苦しみがわかるか?得体の知れない異物と扱われ、意思を承認されず、言動を否定される。理解がないからそこに慈悲なんて無い。

ただただ境界を設けられ限りなく遠い場所から接せられる。いや、コンタクトされる。距離はもうどうしたって埋まらない。愛情を向けられる分動物(ペット)のほうがまだマシだ。

 

私に向けられた「変わってる」「変人」「頑固者」「狂ってる」の実際はこんなものだ。

誰にも許容されない「変人」は地獄だぞ。

 

勝手な想像だけどこうやって世間の爪弾きにされて誰にも理解も相談もできず、命を絶った人も多いと思う。誰に悩みを相談したって分かってもらえず、考えすぎ、頭がおかしい、偏屈、頑固、妄想が激しい、そんなの誰にも理解されない。そんなことを誰もかれもから言われる世の中なんて楽しいはずがないじゃない?もう居場所なんか無いじゃない?私はなんとか苦しいながらも折り合いが付けれているから大丈夫だけど本当に辛い世の中だと思う。

 

たまにいる自称「変わり者」、変わり者と言われて嬉しいといっている人、それは仲間内での会話のみに留めておきなさい。

あなた達のような「普通」の人が語る「変」と、「普通」になりたくてもなれない「変わった人」の「変」は全く異質なものなんだ。

あなた達はその本当の「変」を理解できない。一対一で相対したならばあなたはその個性に太刀打ちできない。仲間と示し合わせてその変人に相対しなさい。そしてできればその個性を認めてください。悪気はないんだ。物事の捉え方が違うだけなんだ。迷惑をかけたいだなんて思っていない。むしろ役立ちたくて行動しているんだ。でも捉え方が違うから奇異に目に映るんだ。

でもどんな言葉で語ろうと、どんな行動で示そうと理解されることは稀なのだろうな。変わり者が変わり者たる所以、それは他者の気持ちが理解できないからなんだから。

自分が変わり者だと自覚して、周りに合わせれば合わせるほど行動が歪になる。それを指摘されて結局変人扱い。変に思われてることも分からないから愚直に続けてしまう。そしてストレスが積もり積もり限界になる。

そして諦める、自分の存在も可能性も。世の中に絶望しながら生きていく。そんな人を何人か見た。「周りと考え方が違う」それだけ。

ただそれだけで人の人生は終わる。動物の世界と同じだ。群れから追い出された者の末路と同じだ。少なくとも長生きはできない。

人間だって同じなんだ。幸福とか自由とか平和とかどれだけ美辞麗句を並べ立てても本質や自然の原理には逆らえない。適者生存の結果だ。

私もASD、群れから離れた個体。この自然の原理が適応されるかも知れない。実際ひとりだ。しかし絶望はしていない。この現代の人間社会、孤独だけでは死にきれないコンテンツに溢れている。

誰にも承認されなくても、誰にも知られなくても、この溢れるコンテンツの中から「生きてる実感」を探し出すことが出来るはずだ。その希望だけを胸に今日も生きてる。

 

話が全然まとまってないが、「変わってる」「狂ってる」などの言葉はある人からしたら苦痛が伴う言葉だからあまり軽々しく使ってほしくない言葉だなと思ったわけで。

私だけじゃないと思うが、ASDやギフテッド?の気質のある人達は言葉をちゃんと意味通りに使う傾向があると思う。感じや雰囲気だけで安易に言葉を選んで扱う気は無い気がする。

私の場合は自分の中で意味が曖昧な言葉は絶対にネットや辞書で調べてから使う。曖昧なまま使えない、というか気持ちが悪いのだ。文章を読んでいて繋がりが変なのが気になってしょうがないから念入りに調べる。この感じ、分かってくれる人多いと思うけどなぁ。

 

そういうことで「変わり者」という言葉にも自分なりの意味、経験が詰まっている。だから軽々しく思える使い方に対して過敏になってしまう。周りから承認されているならいい。でも本当に孤独な人が受け取る「変わり者」という言葉は天と地ほど意味の差があることを知ってほしい。

 

最後に、自称「変わってる人」へ。

安心してください。あなたは普通です。普通の上で成り立っている変な人です。本当に変な人は嫌われますが、あなたはその変わっていることによって好かれたいのでしょう?承認欲求の一種ですよそれ。

話の前置きに「変わってるかも知れない」とか「変わってるっていわれる」とか付けるのはいいですけど、本当は会話で地雷踏んだときの免罪符として使ってますよねそれ。保身のために変人気取りは見苦しいですよ。それに本当の「変わった人」は自覚できないから自分で変な人と言いませんよ。変わってると自称してる時点で典型的な模範的な普遍的な常識的な普通の人ですよ。もっと普通を誇りなさい。

 

 

 

なんか今回は毒吐いちゃったな。反省。

 

 

 

 

 

幻想を見る目を持っていない

 「あんな感じ」「こんな感じ」「○○みたいな」

とても疑問に思う。

みんな何を見ているんだ?何が見えているんだ?

それはその人の脳内での想像、幻想の類だと思うのだが何故それが他人に伝わる?

私には一片も見えない。「それは何ですか?」と質問しても「なんというか」「適当」とか「言葉にできない」と答えられる。

一体なにに納得し合ってるんだ?

しかもその幻想は共有しあえるらしい。

  例えば「幸福」について。

よく聞く幻想は「お金の心配がなく時間に余裕があってストレスのたまらない生活。定期的に旅行も行きたい。」みたいなもの。

この幻想が他人には分かるらしい。私には見えない。

しかもその目的を達成する手段が「宝くじ」らしい。これも幻想の類。

 

「冬場にエアコンを使わないなんて信じられない」

「お昼ご飯を食べないなんて何かの病気か?もしくは金が無いのか?」

「母子家庭で辛かったでしょう?可哀想に。」

 

このような色んな事を言われてきたが全部他人が勝手に思っている幻想。全ての理由を説明してもすんなり納得されることは無かった。「あなたはそう言ってるけど本当はこうなんでしょう?」という風に現実を捻じ曲げてくる。

 

  このような見えない幻想に対して意見を求められるのがとても辛い。理解できないものを理解する材料の無いまま相対するのはとても難しい。出来ることはなるべく相手の思考を想像し、意に沿った答えで茶化すこと。相手の反応に対する対応になるので後手後手になるのは仕方ない。

ここでその幻想に対して自分の意見を言って拒絶されると「あなた変わってるね」(=私はあなたを理解しない)とレッテルを貼られてそれ以上の意思疎通を停止させられるのだ。

 

  最近特に思う。みんなその幻想が見えているのか?なぜ明らかに他人が作り出した幻想を貼り付けられているのに、その通りの言動が出来るのか。幻想を揺るがす人を排除するのか。現実や原理原則よりも見えやすい幻想が持て囃されるのか。都合のいい幻想からより都合のいい幻想へと頻繁に目線が変わるためかいつまで経っも幻想が形を成さない。だから私には見えない。

それなのになぜみんなは「あなたにも同じモノが見えているでしょう?」と強要してくるのか。

自分が今見えている幻想は他人にも同じに見えているはず。この押しつけが私は大嫌いだ。

私以外では同じように見えている、もしくは見ることが可能のようだ。この原理が分からない。しかも一度幻想にハマり込めば中々そこから出てこない。幻想に従う者は迎え入れ、異を唱える者を排除する。どの幻想の世界も同じことをしている。

 

幻想とは「常識」のことか?「みんな」のことか?「普通」のことか?

確かなことは多くは「現実」ではないこと。

幻想を語れば夢を見られ、現実を語れば目を塞ぐ。世の中とはそういうものなのかもしれない。

  私はいつも、何があっても現実を生きる。幻想はもう沢山だ。最近、自閉スペクトラム症ということが判明した。もともと定型発達者の持つ感性が備わっていなかった。幻想なんて見れるはずがない。夢の世界には住めない。

私はいつだって真実の側だった。これからも過去に幻想の側から捻じ曲げてしまった自分の現実の世界を相手にどこまでやれるか試すだけだ。

 

幻想の世界にさよならして

真実満たす現実の世界へ